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羅菊芝はなぜ自殺したのか(写真付)

2011-08-22 ソース:Kaiwind 作者:作者 牛剣鋒




 

羅菊芝の遺影写真


羅菊芝、内モンゴル自治区包頭市出身で、住所は青山区青山東路である。定年前、彼女は大手国有会社の社員だった。2009年3月、下の息子に対する満々の母の愛情を持って、あんまりにもがっかりしたため家で腕を切って自殺した。

羅菊芝はなぜ自殺したのか。それは法輪功に溺れた下の息子は無感情な人になったため、彼女は生き甲斐を感じられなくなり、世の中にもう未練をもてることはなくなったので、とうとう精神が崩れて、帰りのない道を選んでしまった。

李敬寧は羅菊芝の下の息子である。漢民族で、1968年に包頭市で生まれた。小学校から高校までずっと包頭市で勉強し、後は北京医学大学に入学した。卒業してから北京に残って仕事を始めた。1997年に博士の課程を受けるため、自払いでアメリカに行った。メリーランド州にある生物研究企業で働き、豊な生活を送っていた。2000年から2002にかけてアメリカ?カトリック大学中国学生学者合コン主席を二年間担当した。彼は法輪功練習者である。よく法輪功マスコミ大紀元、新唐人テレビ局で法輪功関係の文章を発表したり、訪問を受けたりしていた。妻馬瑞金、漢民族、1969年に生まれ、包頭市出身である。小学校から高校までずっと包頭市で勉強し、後は北京の大学に入学した。卒業してから北京で就職をした。李敬寧がアメリカに行ってからしばらく彼女もついていき、アメリカで一緒に生活をした。お二人はアメリカに勉強した時、法輪功の練習者になり、あちこちイベントを行ったり、ネット上法輪功を宣伝したりして、法輪功に溺れていた。




北京医学大学の学生時代の李敬寧

 


李敬寧の妻、馬瑞金


2002年以降、羅菊芝と夫は同時に病気にかかった。羅菊芝は骨粗鬆症で一年中は寝 たきりだった。夫李鴻球は2006に胃のがんを確認された。お二人は病気に苦しんだ時、もっと思ったのはアメリカにいる下の息子李敬寧だった。しかし李敬寧は1997年アメリカに行ってから世界中に回ったが、家へ戻ったことはなかった。お二人はずっと彼が帰ってほしかった。しかし、李敬寧はたくさんの理由をつけてか帰ってこなかった。お兄さんは彼に連絡し、経済的な援助をしてほしいと言ったが、李敬寧当時の収入はよかったのにもかかわらず、一切乗らなかった。ただメールで親を法輪功の勉強をしなさい。病院に行かなくても、法輪功の練習だけで病気は治る。治療より節約できるなどの内容を書いたばかりだった。

夫李鴻球ははいまわの際になった時、しゃべれなくなった。上の息子は李敬寧に電話をかけて、早く帰って父親を送ってくださいと言ったが、李敬寧は「生きることと死ぬことは自然界の規則だ。人の肉体は蛋白質の塊で天に任せよう」と答えた。

李鴻球はあんまりにも下の息子を思ったため、病気は速やかに悪化した。死ぬ前に息子を会いたかったが、帰ってもらえなかった。

2007年の冬、李鴻球はなくなった。ずっと息子李敬寧と会えなかった。李鴻球は李敬寧の名前を叫びながら死んだのだ。法輪功は李敬寧夫婦の良心を全部なくした。昔、羅菊芝は李敬寧が最もできる子と思った。しかし、李洪志の法輪功を練習した彼は基本的な人間性さえ失った。まさに李洪志の言ったごとく:「この世あなたたちは家族だとわかったが、生まれ変わる前、家族じゃないことがわかったのか。この世この子はあなたの子、生まれ変わる前、この子は誰の子なのか」(2006年「LAでの説法」)

李敬寧夫婦は法輪功の話に影響されて親への思いを徹底的に手放し、他人の息子としての責任を手放したから、人間惨劇を作った。

李鴻球がなくなり、独立生活ができなく、寝たきりの羅菊芝が残された。彼女はもっとも優秀だと思った息子李敬寧は人間として最低の親孝行さえなかった。羅菊芝はますます絶望な気持ちになり、病気も悪化し続けた。自分は長く生きられないことが分かったので、最後の幻を使って、人を通して、何回も李敬寧に帰ってくださいと伝わってもらった。彼女は最後息子を会いたくて、死んだ夫の代わりに息子を会ってあげたかった。しかし李敬寧は帰ってこない。それは羅菊芝を自殺の道に追いかけた。


 


羅菊芝の自殺現場

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