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廖一萍:私が経歴した4・25事件

2012-04-23 ソース:Kaiwind 作者:廖一萍(口述)王瑞敏(整理)

廖一萍と申します。いまは74歳、定年前は中央財経大学の教師だった。

1995年11月、乳がん手術を受けてから、三年間が経った。いつも体を元気にする方法を見出そうとしていた。ちょうどその時、同じ学校にいた朱淑清先生は法輪功を勧めてくれた。彼女から『中国法輪功(改正版)』をもらい、帰って読んでみたら、本の中の「気功すなわち修練である」に心惹かれた。その後、『転法輪』を手に入れた。『転法輪』の中には「修練を通じ、病気を治し、体を元気にするばかりでなく…私には無数の法身がある、修練者が邪道に行かないようにする…この世にいるあなたを円満にさせる」と書いてある。

魅了された私は朱先生と一緒に北京師範大学の住宅団地で修練スポットを立ち上げた。朱先生はチューターを担当し、私はテープを流し、皆さんの動作を直す。毎日の大部分の時間を法輪功の勉強と修練に振り向けた。李洪志は「修練のチューターはお寺の方丈と同じ」、法輪大法のために貢献するなら、功績と恩徳を重ね、一般の修練者より成長が早いと説いた。

1998年、法輪功修練者は北京テレビ局を囲んだときには私は行かなかった。李洪志は『根を掘る』という文章で、「あなたたちに人々と決別させるときに私に従わないものは、いいチャンスを逃した」と述べた。これを読んだ私は後悔でたまらない、「これからまた円満のチャンスがあるなら、私は絶対逃さない」ことにした。

とても心配なのは、修練スポットに修練者は20数名がいるが、3人が相次いで病気でなくなった。張麗茹はずっと風邪気味だが、彼女は師父が「業消し」をしていると思い、ずっと病院へ診察を受けることを拒んでいた。結局、肝臓癌でなくなった。劉さんという修練者も治療を拒否し、肺がんでなくなった。チューターの朱淑清先生は頭痛に苦しみ、結局修練者を集め、法輪功を学ぶことさえできなくなった。しかし、彼ら3人の状況を見ても、当時私は真相を悟れなかった。この3人を「円満に達していない」者とみなした。修練の中途半端を恐れる私は決意を固め、生涯にわたって精進を求め、円満に達しなければならないと思った。

1999年4月24日午後、このあたりの大学の修練スポットを管轄する莫さんは電話で私と新しいチューターに会議の開催を知らせた。会場まで駆けると、すでに40、50人のチューターと学習組長が集まった。地域の副管理人の張宝山(李洪志のもと運転手)もいた。

莫さんは何祚庥が書いた『私は青少年の気功修練に賛成しない』という文章をみんなの前で読み、「試練の時がきた、すべての修練者に明日の早朝に中南海へ行くことを通達しよう。ただし、修練者に『外にこれが組織的な行動だと言わないで、みんなが自分の意思で行き、まったくの個人行為だと言ってください』と話しておくように」と話した。

会議が終わってから、私たちは上の話を各修練スポットの修練者に伝えた。

次の日に、私は『転法輪』を持ち、22番の路線バスで中南海の西門まで行った。そちらにはすでに大勢の修練者が集まった。すると、秩序を維持しようとする者が、前の修練者が立ち、後ろの修練者が疲れたら座れるようにした。年をとった私は壁の隣に座り『転法輪』を読み始めた。集まった人数がどんどん増え、地方からの修練者も来た。

私たちが代表を出して、中南海に送りこんだが、交渉は結果が出なかった。そうすると、また新しい代表を送り込んだ。お昼のとき、ほかの修練者と私はみなおなかが空いた。店で煎餅を買い、結果を待つしかできなかった。店から帰ると、「結果が出るまで、みんなここから離れないで」という通達が来た。

夜9時、法輪功研究会の李昌は身分を明かし、皆さんに早く帰ろうと促した。私たちはバスで帰った。

帰ると、夫とお嫁さんが私のことを心配している。お嫁さんは「李洪志に命をかけるの?(法輪功は一日中)ちゃんとした食事さえ用意してないのに」と文句を言った。夫も「中南海ってあんたたちが勝手に行ける場所なの。国の面子は丸つぶれだ。国の要害部門の300メートル以内に停まり禁止って知らないの?」と怒った。私も自分の行為が正しくないと感じ、試練の場所を中南海の付近にするということを疑った。

振り返ってみると、(あの事件は)本当に荒唐だと思う。李洪志は「法輪世界に肉身がある」、自分は「正真正銘の修練者の体を浄化する」と話したが、うちの修練スポットだけで3人がなくなった(朱先生は2001年で脳癌でなくなった)。李洪志は「修練者は政治に関与しないように」と教えたが、実は私たちを政治の最前線まで押し付けた。

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