3月23日午後、筆者が雨の中を遂寧市船山区富源路金梅団地5社に行って、舒華の家で彼にインタビューをした。舒華さんは楊運富が法輪功修錬のことをあるがままに教えた。楊運富は舒華の隣に住む人で、1950年10月に生まれたかれは、舒華の父と同年で、舒華に楊おじさんと呼ばれた。両家は仲が良いのだ。
楊おじさんは若い頃、村人にデブの楊さんと呼ばれたが、体がよかった。彼はまじめな人で、畑仕事が得意な人であった。彼と楊おばさんが結婚した後、息子一人、むすめ一人ができた。家族四人とも仕事があった。息子の楊建華と娘の楊秀群は遂寧市にある大手企業で働いている。90年代の初め、楊おじさんと楊おばさんは村の近所にある道路の側でラーメン工場を創立した。ビジネス繁盛で、現地の遂寧テレビ局にも報道された。収入が高くなって、一家は幸せな生活を送っていた。だが、楊おじさんが法輪功を修練してから、家に大きな変化があった。楊おじさんは糖尿病があるから、修錬すれば、消業できるということを信じて、長い間に薬も食べなく、針治療も受けなく、元のデブは痩せた人になり、その後は修練で殺されたのだ。
1994年4月、遂寧市内では法輪功修錬がブームになった。楊おじさんが遂寧南のロータリーで人が法輪功を練習しているのを見た。その中の一人は積極的に楊おじさんを説得しようとした。「これを練習さえすれば、体が元気になれる。薬も針治療も要らない。何でも治る。レベルが高ければ神様にもなれるよ。欲しいものなら何でももらえる。仏の報いも家族みんながもらえる。」これを聞いた楊おじさんは心を動かされた。彼はそれで自分の糖尿病を治したいと思ったのだ。そうすると、彼は一緒に練習しようと決心をした。その日から、楊おじさんは毎日遂寧南のロータリーに行って修練をした。風の日でも雨の日でもそれをやり続けていた。だんだん無我夢中になってしまった。ある日、私は用事があって、そこを通りかかった時に、楊おじさんがそこで胡坐をかいて修練していたのを見かけた。彼から先に口を利いた。「舒ちゃん、あなたもここに来て法輪功を練習すればどう。体が丈夫になるし。」「もういいですよ。それは迷信です。」と私ははっきりと断った。彼はその時から私を勧めなかった。
ちょっと練習した後、楊おじさんが体がちょっとよくなったと感じたらしい。法輪功のおかげではないかと思いこんだ彼は修練の時間を長くした。昼でも夜でも胡坐をかいて修練をした。家のラーメン工場のビジネスにも全く無関心になった。得意先はだんだんどこかへ行ってしまって、工場は生産停止を余儀なくされた。家計も大きく影響された。楊おじさんの娘が断固として父親の法輪功修錬に反対したが、それで親子の間にしきりに喧嘩をした。楊おじさんは頑固な人だから、誰でも彼を止められないタイプである。子供たちがそれを知っていて、彼に録音テープや録音機を買ってあげた。楊おじさんが家で音楽を聴きながら、修煉をしたのだった。
1999年7月、国よって法輪功が取り締まられ始めた。楊おじさんはどうしても納得できなかった。彼が言うことに、「師匠様の法力がすごいものだよ。薬も注射もしなくて病気が治る。これはいいものなのに、何で取り締まるのか。不公平だ。どうであろうが、私は続けてやる。」建華と秀群が楊おじさんが国の法律に違反して外に出て宣伝すると、家に災いをもたらすことが心配で、何回も彼を引き止めようとした。法輪功を諦めて、ラーメン工場を続けると彼にお願いをした。だが、楊おじさんは「絶対に止めてはいけない。功力がすぐに落ちるから。そうすると業力が跳ね返る。今までの修行も、糖尿病の治療も台無しになってしまう。」と言った。彼はまた怒って子供たちに言った。「もう何も言わないで。邪魔するな。師匠様から罰を下されるから。」気が狂ったような楊おじさんに、皆さんは仕方がなかった。
2006年、楊おじさんが何年もの修行を積んだが、体の調子は全然よくならなかった。かえって悪くなったのだ。もともとはデブだったが、今度は痩せた人になった。糖尿病も悪化しつつあった。私は心配して、彼にひと言を言った。もう法輪功を練習しないで、体に気をつけて、できれば病院にでも行ってくださいと。そうしたら、彼は「糖尿病がひどくなるのは、体にある業力がまだ残っているからだ。大法の弟子としては絶対に病院に行ってはだめだ。修錬してその業を消すのだ。師匠様が必ず功を発して私の糖尿病を治すのだ。」楊おじさんの話はいかにもめちゃくちゃに聞こえたから、わたしはどうしようもなかった。ある夜、楊おじさんは家族の人に内緒して外の辻へ法輪功のチラシを配りに行った。現地の住民たちに見つかって、反邪教ボランディアに連絡した。その人たちは彼に法輪功は邪教で、もう国に取り締まられたから、今後国の法律に従って、二度と外へチラシを配りに行かないでくださいと彼に教えた。彼は、はいはいと一応返事をしたが、心の中ではまだ諦めようとしなかった。家族の皆さんも繰り返し止めようとしたが、楊おじさんはやはり毎日家で胡坐をかいて修練を続けた。今度は昼夜兼行でしていて、家をめちゃくちゃにした。建華と秀群は我慢できなくなり、出稼ぎをして、楊おじさんと一つ屋根の下にいたくなかったのだ。
2014年11月、楊おじさんの病状が急に悪化した。体が小さくなり、顔は細くなって、もはや昔のデブと別人に変わった。同じ団地に住んでいる隣の人たちはみんな早く病院に運べ、そうしないと救えないと彼の子供たちに注意をした。建華と秀群は慌てて、父親に遂寧中心病院に行ってと哀願した。だが、楊おじさんは全然話を聞かなかったのだ。どうしても病院に行こうとしなかった。「私は大法の弟子だから、死んでも病院に行かないのだ。修錬をして業を消して、最後の難関を突破する。もうすぐ円満だ。」それを聞いた子供たちはあきらめるしかなかった。運を天に任せるしかできなかったのだ。
2014年11月18日、楊おじさんの病状は急激に悪化し、気を失ってしまった。当日の夜呼吸を止めて、永遠にこの世を去った。法輪功が楊おじさんを殺したのだ。
楊運富生前の写真