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“消業”が老夫婦を引き裂いた

2017-02-06 ソース:kaiwind.com

孫学徳、1936年山東省済寧生まれ、1961年北京に来て、北京清華大学の校内工場で働いていた8級の組立工。仕事に熱心であり、定年後も職場から再雇用され、学生に組立作業の技術を指導していた。  

妻の翠英は法輪功の修行者で、学歴はなかったが、溌剌でしっかりしており、夫の孫は十歳年上の事もあり、妻に譲歩する事が多かった。19979月に翠英が修行を始めた時、孫はあまり気にせず、彼女にする事ができ、家で面倒も起こさず、“真善忍にて良い人となる”が妻を制約し、癇癪も少なくなり、子供に対して大声を上げる事も少なくなった。こうして、妻の翠英の度重なる勧めもあり、1998年の初めから孫も法輪功の修行を始めた  

好い事は続かないもので、19985月に北京テレビ局が法輪功のマイナス面を特集すると、翠英は指導員に従ってテレビ局に駆け付け、数日間騒ぎ続けた。孫の息子は母親に対し、“何も解らないのに他人と一緒に騒いでいても悪い人間に利用されるだけだ”と説得したが、翠英は全く聞き入れなかった。1999年“4?25”法輪功が中南海を包囲した事件でも、翠英は積極的に参加した。孫は仕事の都合で参加できなかったので、翠英からは何度も“師父が決別しろと言った時にあんたは一緒に行かなかった、こんな機会は二度とない。一体何を修行しているのか、円満のためにではないのか?”と文句を言われたが、孫にも意見はあり、“師父は実際の修行を堅持しろと言った、他人がどう言おうと気にせず自分がしっかりしていれば良い。”と答え、老夫婦の口論は絶えず、夫と妻は各々譲らず、最後には“悟りさえあれば、どんな悟りでも構わない。”となった。  

政府が法に基づき法輪功を取り締っても老夫婦は納得せず“修行で病気が治り、良い人間になるのに何が悪いのか?”と述べ、息子が“政府が禁止したのは理由がある、テレビで放送した通り医療や薬を拒んで死亡した事例もあるのに、教訓を得ていない。”と言っても老夫婦は“あれは嘘っぱちで法輪功を貶めるものだ、修行は百利あって一害も無い。”と言うばかりであった。  

孫は全く仕事に出なくなり、更に修行に精進し、孫娘が  

生まれると非常に可愛がったが、李洪志が“名利を捨てて円満に昇天しよう”と要求したので、ほとんどの時間を修行に充てた。息子が“私達のためではなく、孫娘のために修行をやめてくれ”と言うと孫は“お前には解らないだろうが、人が幸せなのは何年も無い、本当に修行すれば永遠の幸せが得られる”と答え、決まった時間に“正念を発する”べく、毎日6時に2回、12時に2回鈴を鳴らして法輪功が要求した通り、1日に4回全世界の修行者と同一時間に“正念を発し”、唱えるのは“正しい法で乾坤邪悪は一掃され、正しい法はこの世に報恩をもたらす”であり、孫娘が泣いても邪魔としか思わず、“正念”を発し終わってから初めて孫娘をあやした。こうした状況を息子は我慢していたが、一番心配な事は老夫婦が健康診断もせず、医療も受けず、“修行者は病気しない”と信じている事だった。  

2005年息子は孫の身体が以前とは大きく変わり、眠ってばかりで物忘れがひどく、尿が黄色で毎日元気が無いのに気が付き、父親に病院に行くよう勧めたが、孫は受け付けず“消業が進んでいるので直ぐ治る”と言い、翠英も“問題ない、修行者の事は師父が面倒を見てくれるので、危険は無い”と答えた。老夫婦は“正念”を発する時間が増え、首には“法輪大法は好い”との護身符を掛け、“師父の法身が不正確な状態を正してくれる”と言っていた。しかし事実は異なり、1年経つと孫の身体の状態は更に悪くなり、脚は腫れて歩けなくなり、しばしば失禁した。20063月息子は無理に北京病院第三院に連れて行ったが、医者は“息子として何をしていたのか?今頃やっと連れて来て”と息子を責めた。診療の結果、孫は既に肝臓癌の末期であった。家族には青天の霹靂であり、息子は怒って家の法輪功の書物を破り捨て、護身符も捨てた。翠英はただ泣くばかりで、最初から李洪志の“消業説”をあれほど信じるのではなかったと後悔した。しかし世の中に後悔の薬は無く、時間の逆流も不可能であり、孫は3ヶ月後に病院で亡くなった、享年70歳。  

父親の教訓から、息子は強制的に母親を病院で検査した結果、高血圧症状で長期間の観察と薬による抑制が必要となった。翠英は事実を前にして“修行者に病気無し”と言い張るする事も無くなり、医者に従って服薬治療を続けたが、法輪功による老夫婦の別れを恨んでいる。  

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