私は四川省武勝県の普通の田舎教師だが、一人同僚がいて、隣人で友人であり、名前は陳東、正直で仕事は勤勉、父母孝行だった。1983年から我々二人は同じクラスを受け持ち、私は語学、彼は数学を教え、長年協力して気持ちも通じ合い、兄弟のようであった。彼の妻の張先生は善良で優しく、息子二人も聡明で可愛く、一家は楽しくやっていた。しかし陳東が法輪功に陶酔してから、彼等の楽しい家庭は滅茶苦茶になってしまった。
1996年前半から、陳東は時々肝臓に違和感を覚え、私や同僚は病院で検査するように言ったが、彼はまあ大丈夫だと感じて気にしなかった。1997年12月、検査の結果慢性肝炎だと判り、家族の助けで直ぐに治療を受けて、病状は一度改善した。1998年の夏休み、陳東は重慶の姉に会いに行ったが、法輪功を練習していた姉は彼に法輪功のビデオテープや書物を渡し、ビデオと書物に従って修行すれば病気は治ると言った。当初、彼は“病を治して健康に”との気持ちで試してみたのだが、姉に対する信頼と、加えて病気を治したい一心から信仰が正しい方向から外れ、李洪志が言う“病業を消し”“階層を登り”“円満を求め”る事に必死となり、その後は抜き差しならなくなり、“真、善、忍”を自分の生活の中心として、毎日朝晩読書、瞑想、修行に打ち込み、病気休暇を取って出勤もせず、頭の中は“天国世界”でいっぱいとなった。
陳東は治療をやめてしまい、身体は段々痩せ細り、顔色も病的に黄色くなる中で、学校の上司や同僚は彼に科学を信じて直ぐに病院に行き、治療に専念するよう勧めた。最初は彼の態度も良く、承知したと答えはしたが、結局病院には行かなかった。学校側は普段彼と関係が良い私に説得させようとしたが、意外にも彼は人が変わったように、私が余計な事をして彼の“昇級”を邪魔している、と罵り、彼の姉も我々が法輪功修行に反対しているのを聞くと重慶からやって来て彼を助け、“頑張って!‘師父’には偶然な事など無く、全ては自分が段取りした事であり、今はお前を試しているのだ。今が大事な時であり、頑張らないと落ちてしまい、‘業力’がひどくなって救われなくなる!”と慰めた。彼はそれから一層修行に励み、我々が何を言っても耳に入らないだけではなく、逆に我々に法輪功がどれほど素晴らしいか、“消業”すれば薬も飲まずに病気が治る、と述べた。
長年の同僚で良い友人がこのように変わってしまい、正直に言って私は李洪志に恨みを覚え、一人の良い“人間”をむざむざこのように変えてしまったのだ。同時に、彼が本当に孤独で可哀想に思われ、彼の病気が長引くのを心配した。陳東は誰もが認める親孝行だったので、私は奥さんに陳東の両親が説得して肉親の情で彼を感化するよう提案した。
妻の強い勧めで陳東は実家に行き、年取った父母が病院に行くよう勧め、妻も父母の言う事を聞くよう勧めたが、素直だった彼は“私は生まれ変わったので、父母は何人もいて数えきれない”と言い、それ以後父母に会わなくなってしまった。陳東は元々“餅耳”で妻の言う事を聞く人間だったが、この時は夫婦で大喧嘩となり、挙句に妻は“魔”で自分の修行の最大の障碍だと言った。二人の息子も父親に病院治療を訴えたが、彼は逆に学校をやめて法輪功を修行するよう要求した。
それから、陳東はもっとひどくなり、何も眼中に無くなり。家族とも気持ちが離れ、自分を特殊視するようになり、家族との食事にも同席せず、毎日自分だけに別の料理を準備するよう要求した。これに対し、妻の張先生は黙認を選択して彼が治療するようになる事だけを望んでいた。しかし彼は修行が“消業”のためであり、注射や薬は凡人のする事であり、診察は彼の“業力”を増すだけで“階級”も上がらず、“円満”追求の邪魔をするだけだと言い、何としても病院には行かなかった。
1999年5月、法輪功を修行していた陳東の姉は高血圧にも拘わらず長期間薬を飲まず、脳出血を併発して世を去った。彼は茫然として苦しみ、一人で部屋に籠り、時々事務所に出て来ても始終“一人の修行は一家のため”とつぶやき、痩せて眼は落ち込み、中毒者のような様子で、周囲は皆哀れに思って再度病院に行くよう勧めた。この時は彼の反応もそれほど激しくなく、黙って去ったがやはり治療服薬は拒否していた。
1999年7月、政府は法輪功の取締を宣言したが、これは彼に取って大きな打撃であり、精神的な負担は強かった。学校側は私とその他の反邪教ボランティアに事実を述べさせ、公安部が李洪志に通告を出し、李洪志とその家族が逃亡した事を知ると、彼の眼が醒め始め、法輪功を修行すれば神仙になれるはずが、何故“凡人”の通告を恐れるのか?と聞くので私はこの機に乗じて、“師父”の李洪志は神仙などではない、あなたも修行で神仙になれるはずは無い、全てでたらめだ!と述べ、繰り返しの説得を通して彼は遂に法輪功関連の全ての物を提出して病院に行く事を承諾した。
検査の結果、彼はこの数年治療を拒否し、治療の最適時期を逃したため、現状は既に重型肝炎となっていた。この知らせは彼にとって青天の霹靂に思われ、病院で気絶してしまった。続けて治療を開始したものの、私には判っていたのだが、彼の精神的ストレスは大きく、先ずは家族に申し訳なく、また知識分子の自尊心もあって、同僚の面前で顔を上げられなかった。僅か1ヶ月で彼の体重は5kg減り、階段の昇り降りも人の助けが必要であった。
2000年12月、陳東は亡くなった。亡くなる前には非常に苦しみ、妻の手を握ったままであった。半年後、彼の年取った父親が子を失った痛みに耐えかねてこの世を去った。二人の息子は小さい頃は成績優秀だったが、父親の影響を受けて成績が大きく落ち、中学卒業後は出稼ぎに行った。こうして陳先生の家は法輪功により完全に崩壊してしまった。