1998年4月、『斉魯晩報』は『法輪功の真相を見破ろう』と題する論評を掲載したたため、6月約多くの学習者は二回にわたって、「積極的に」斉魯晩報社の扉の東西両側で「座り込み」をし、「謝罪」を要求し始めた。
私は王光天と言い、今年は66歳、山東省済南市のある高校の副校長であった。法輪功に溺れていたため、済南市天橋区補導站の補導員を務めていた。次に自分が体験した「斉魯晩報社包囲事件」を暴露して、法輪功の真相を皆さんに説明しよう。
1996年から病気を治したり体を丈夫にしたりしようとするため、法輪功を学習し始めた。一時期運動をして、体がだいぶ良くなってきた。当時、運動のせいだと思わず、法輪功が体を丈夫にする効果は悪くないと思った。高校副校長の身分があったため、まもなく天橋区法輪功補導站の補導員に任命された。したがって、私は済南法輪功総站とよく連絡してきた。
1998年4月1日、『斉魯晩報』は『法輪功の真相を見破ろう』と題する論評を掲載し、一部の法輪功学習者は注射や薬を拒んだため、病状が重くなったり、死んだりしたため、患者の家族が居ても立ってもいられなくなっていると報道した。その後、『斉魯晩報』は4月7日に『旗印を明確にして科学を宣伝しよう』、4月8日に『マインドをコントロールしてからお金を出してもらう――「法輪功大師」が金をかき集める手法』と題する記事をそれぞれ掲載した。二番目の記事は最後に、「陰険悪辣な李洪志“大師”は他人のお金を騙し取っているだけでなく、みんなに自分を闇雲に崇拝してもらっている。きわめて貪欲なものだ」と、一人の法輪功弟子の訴えがあった。
これらの記事は法輪功「済南補導総站」の中堅や一部の学習者から不満を買った。『斉魯晩報』の記事を反駁するために、「済南補導総站」はわれわれに、修練の体験や心得を書いてくれ、北京の「法輪大法研究会」に報告すると指示した。私は区内の法輪功学習者を集め、『私たちの修練体験と心得』と題する小冊子を編集した。
5月7日、私は「済南補導総站」の各区支站長会議に参加した。会議では、張寿強は『私たちの修練体験と心得』に対する「法輪大法研究会」の見方を伝え、あまりに弱々しく力がないとのことであった。同時に、いかに「責任」をより一層追及すればよいかについて検討した。長く続いた会議では、「今後、いかなる人や部門による法輪功反対の言行に対し、公然と対抗しよう」との認識が達成された。その時、自分があまり忙しくなく、家事もそんなに多くなかったため、『斉魯晩報』への「責任追及」に熱心であった。その間、私は煉功站の学習者を集め、もっぱら『斉魯晩報』のやり方を非難すると同時に、4回にわたって斉魯晩報社を訪れた。統一的な組織がなく、力が強くなかったため、行った学習者の人数があまり規模的にならず、多い時は80人前後で、少ない時は10人ぐらいであった。
5月31日朝8時ごろ、私は済南天橋区労働者新村北村幼稚園(法輪功学習者が集まる場所)で開かれ、張寿強が司会した「済南補導総站」?各区支站責任者会議に参加した。張寿強は会議で「5月30日に、済南あたりの法輪功学習者を集め、省委員会と斉魯晩報社に行かせろ」という「法輪功大法研究会」の王治文が5月29日早朝出した指令を伝えた。李洪志が本の中で「研究会のすべての行動はさまざまな形で自分の承知を得たものである」とはっきり述べているため、当時、研究会の決定が師父の指示だと私は考えた。すると、私はその他の参会者と共に斉魯晩報社を包囲する決定と行動計画を制定し、できるだけ多くの学習者を動員参加させ、斉魯晩報社に謝罪してもらい、いかなる個人と組織に法輪功にノーと言わせない目的であった。
5月31日午後、私は煉功点学習者会を召集して、学習者に自分が新聞を読んで「積極的に」責任追及をしに来たと答えようと動員した。6月1日朝6時半ごろ、私は早く斉魯晩報社を訪れ、その後、多くの大法学習者がやってきた。8時ごろ、約1000余人の学習者は「積極的に」斉魯晩報社の扉の東西両側で「座り込み」をし、「謝罪」を要求し始めた。法輪功学習者にとって参加しないと「正法」意識のないものだと認められる。今度の包囲攻撃事件で、歴下区の法輪功補導員であった程恵萍は10数人の学習者を率いて、斉魯晩報社広告部の事務室で新聞社の責任者と交渉した。6月2日付け『斉魯晩報』に謝罪記事を掲載という新聞社責任者の承諾を得て、10時ごろ法輪功学習者は相次いで離れた。この事件は2時間ぐらい続いた。
6月2日、『斉魯晩報』に『読者へのお知らせ』と題する短文が掲載され、「気功活動について、本紙は報道せず、討論しないという原則を堅持すべきであったが、審査不足のため、関連報道を出した。ここで読者にお詫びする」と遺憾の意を表した。これに対し、当時の済南市法輪功の中堅らが非常に不満であり、短文の意思はあまり明確でなく、大法への謝罪内容がほとんどないと私も思っていた。6月2日午後、私は、再度斉魯晩報社に行き、更なる大規模な「座り込み」を組織し、引き続き斉魯晩報社に圧力を加えろとの指示を受けた。
6月3日、私が早く斉魯晩報社を訪れ、当時、多くの法輪功学習者は新聞社の扉の東西両側に座り込んでいた。依然として程恵萍は代表を率いて、斉魯晩報社の五階会議室で新聞社の責任者と交渉した。今度の交渉は8時間も続いた。出てきた交渉代表らが集まった学習者に手を振って、われわれは次第に離れた。当時、新聞社の外で座り込みに出た学習者があまりに多かったため、市民の野次馬見物を招き、交通渋滞をもたらし、交通秩序に影響を及ぼした。
事件後、李洪志はその経文の中で、包囲攻撃に参加した人を大いに賞賛すると同時に、参加しなかった人に対し、「このことによって、一部の学習者の常人観念が抜本的に変えられていないことは暴露され」、「いざとなると、常人と決裂させる際、私についてこない。チャンスは一回しかないよ」と批評した。
(Kaiwind.com, 2009-11-27)