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明慧ウェブサイトは私の死亡を捏造

2010-09-02 ソース:Kaiwind 作者:劉賢足

私は劉賢足と申し、71歳である。(別名:劉賢菊)四川省渠県双土郷石碾村1組に住み、法輪功は修練しない以来、もう二年間を経った。近日、他人によると、明慧ウェブサイトは2001年11月26日に、「劉賢菊、女性、60歳、四川省渠県双土郷の出身であり、2001年1月に、北京へ直訴しに行った後に、渠県公安局に当地におさえて帰られて迫害し、死亡した」という文章を掲載した。双土郷では、法輪功を修練していた人の中で、「劉賢菊」と申すのは私しかいない。明慧ウェブサイトの文章が書いた「劉賢菊」は性別を抜いて、他の要素は全部私の状況に合うのである。明慧ウェブサイトに載せた「劉賢菊」は明らかに私である。このことを聞いた私は驚き、怒りを禁じえなかった。性別が女性に変えされたことはともかく、いま私が生きていることだけで、法輪功の嘘つきが証明できる。

劉賢菊は私の別名であった。私は立派な男性であり、集団所有制生産する時期に、私は大隊の副大隊長兼民兵の中隊長を担当したこともある。この名前でいつも同村の人に笑われ、自分が「菊」を「足」に変えた。でも、一部分の隣人は私を「劉賢菊」と呼んでいた。

私は中学校を卒業したので、現地では、特に年上の方に「知識人」だと見られ、非常に人の尊重を受けていた。60歳の時、私が前立腺炎にかかった。その時、家はまたゆとりがないので、金があると薬を飲み、金がないと薬を飲まない状態に陥った。それで、病気はずっと治っていなかった。1997年8月に、他人は法輪功を紹介してくれた。それに、『転法輪』という本を送れてくれ、「法輪功はどんな病気でも治療できる。よく学習、よく修練さえすれば、金がかからず、薬を飲まず、注射を受けずに、病気が治られるのだ。また、『次元向上』、『圓満成就』に達することもできるのだ」と言ってくれた。私は試そうと思って、法輪功を修練し始めた。

その後、もう還暦を迎えた私は、毎日自分の部屋で学習し、修練していた。何事にも興味を持たず、誰とも付き合いなくなった。妻である王仁琼は、私が黙っていた様子を見て、私が「老人ぼけ」と考え、そもそも仲がよかった夫婦は、これまでの幸せからはるばる離れた。

1999年7月、法輪功は中国法律に違反したので、取り締まられた。当時の私は、全然理解していなかった。こっそりと、自分の部屋で修練し続けた。

しかし、まじめに修練してきたが、体の調子が悪く、排尿が困難であり、腹も痛く、移動さえできなくなった。妻と娘は、入院して詳しく診査しようと勧めたが、私は全然耳を貸せず、入院せず、薬を飲まず、注射を受けずという方針を貫いていた。そして、二人に「おまえらに対して道筋がたたない。苦痛を感じるのは『消業』しているからだ。師父がおっしゃたように、薬を飲むことや注射することは、『業力』に抑圧するのだ。早く学習し、修練しなきゃ」と主張した。その時から、私はいっそう法輪功の修練に夢中になった。

時間のたつにつれて、私の病状はますます悪化した。2005年5月、激痛で、妻は強いて私を病院に送った。これは私が初めて入院したのである。一週間の治療を通じ、病状がコントロールされ、苦痛も緩めた。その時、私は「もし、師父に知られたら、大変だ。きっとしかられる」と考え、ひそひそと病院から出て、家へ修練しに帰った。

このようにして、私は頑固的に、長期的に、薬を拒むため、病気が治らなく、体の具合もだんだん悪くなった。2007年8月に、腹が激しく痛みが感じ、ベットの上で繰り返して転げ回り、ほとんど失神するほどであった。妻は怒って、『転法輪』などの法輪功に関する図書を焼き尽くした。そして、他人に頼み、私を再び病院に送った。

入院した私は繰り返して考えた。自分は師父に敬虔であり、悟りもよく、『転法輪』の大部分の内容も暗誦することができる。しかし、いわゆる「業力」は依然として足りないのはいったいどうしてであろう。こうして、考え直した後、私は法輪功と決裂した。毎日、薬を飲み、注射を受けるようになった。そして、入院治療の効果がよく、体の調子が日増しによくなった。

Kaiwind.com, 2010-02-03)

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