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損なわれた両腕への懺悔

2009-07-13 ソース:Kaiwind 作者:李永順

李永順と言います。私は今年59歳、四川省南充市営山県の生まれ、中等師範専門学校卒業、1998年8月から2004年4月にかけて、営山県法輪功補導站明徳分站の站長を務めてきました。

叔父の影響を受けて、私は中年時代に地相を学んだため、地元ではちょっと名が売れていました。1998年の初めごろ、営山城に住む劉世全先生のお父さんが亡くなりましたが、ある人に薦められて、地相の良い墓地を選択してあげました。劉先生は感謝の意を表すため、3日間にわたって接待してくれました。その晩、劉先生のお母さん胡小碧さんが音楽を流しながら、どこからか来た10数人と一緒に、地べたに座ったまま座禅していたことを見つけました。彼のお母さんに再三勧められた結果、私も彼女たちの煉功グループに仲間入りしました。劉さんの家を離れた日の夜、彼のお母さんは自分が四川省営山県法輪功補導站の站長を務めていることを言い、『転法輪』、『法輪大法』等の本やテープを送ってくれました。同時にいち日も早く補導站を開設するよう繰り返し言い含められました。

自宅に戻って、その経緯を詳しく妻に言いました。「このようなことを信じないでください。糊口の道となる教師の職を失ってはいけない」と妻は警告してくれました。妻の話は道理に合っていると思って、そのことを棚上げにしました。

1999年3月のある夜、大雨に見舞われたため、家の客間は漏水しました。朝早く起きて、漏水した個所を調べに行きましたが、あいにく桁が折れたため、私は屋根から転がり落ちて、右の腕が骨折してしまいました。当時、妻は少し整形外科に詳しい農村医者を呼んで、添え木をしたり、包帯を巻いたりしてもらいました。その翌日、劉先生のお母さんから、補導站を設立することはどうなったのかとの電話がありました。妻は「補導站の設立はまだ着手していない。夫は昨日屋根に覆いを掛けた際、右手が骨折した」と話しました。胡お姉さんは思いやりの言葉を言いながら、「明日、旦那さんと一番電車に乗って、私の家に来てください。彼の怪我を治療してあげるからね」と懇切に言いました。

その翌日、私は妻とともに彼女の家に行きました。胡お姉さんはすぐお茶をいれたり、熱意をこめてご馳走をつくったりしてくれました。妻は胡お姉さんの熱情に感動して、「胡お姉さんが信用できる、いい人ね」と私に言いました。夜になると、私のために座禅煉功を教えたり、「業力消去」と病気治療をしたりしました。その間、私はきりきり痛んでおり、腕がひどく腫れ上がってきました。「胡お姉さん、私の腕はどうかおかしい。明日病院へ見てもらったほうが」と言ったのに対し、胡お姉さんは「大丈夫。『転法輪』の中に『病気は病気ではなく、業力、人間が何回も生まれ変わって伝わってきた業力だ。薬や注射で病気治療ができず、病気を身体の奥の方へ抑えるに過ぎない。ただ「法輪」のたゆまぬ回転によって身体の中にある「黒色の物質」を体外に排出し、根本的に持病を治してこそ、本当に病気を治療することができる。『業力』があればそれを消去しなければならない。『業力』を消去するには病気を患っていても、薬を飲んだり注射したり、病院に行ったりする必要がないはずだと書いてある。煉功をすれば、李洪志大師は『業力』を消去したり、疾病を治したりして下さる。李大師を信じてください。彼にとってこのような小さな病気なら容易なことだ。業力が消去されれば骨折は自然に癒合し、元どおりになる」と言いました。

そう言われると、一日が一年のように長く感じながら、彼女の家でさらに三日間にわたって座禅煉功を続けてきました。四日目になると、妻は顔色が非常におかしく、夜にうめき続けた私に「永順、今日胡お姉さんの隣人から聞いた話だが、彼女の旦那さんが癌の晩期にあまりにも痛かったため首を吊って自殺した。明日、病院の整形外科へ診てもらったほうがいいじゃないかと思う」と勧めてくれました。妻の話に半信半疑でしたが、その翌日の朝、妻と営山県人民医院へ行って、お医者さんに包帯を外して診てもらったところ、皆驚きのあまり呆然としました。私の腕には水泡ができており、筋肉がポークレバーの色となり、骨折した個所がただれ始めました。「腕を切断しなければならない。さもなければ助からないかもしれない」とお医者さんは言いました。当日の午後、お医者さんは腕の切断手術をしてくれました。目が覚めると、私は悔やみのあまり涙も出られなくなりました。私のことを知って、胡お姉さんが病院に見舞いに来ました。彼女は愚痴を言いながら、果物や栄養食品をたくさん持ってきてくれました。「あなたが病院で治療を続け、私も自宅で引き続きあなたの業力を消去するためにお祈りする。あなたのことはすでに洪志大師にも伝えた。洪志大師がいなければ、あなたは手術をしたその日に目が覚めることができないに違いない」と言っていました。退院した日に、胡お姉さんはまた私を彼女の家に迎え、私達を親切に接待してくれました。別れようとした時、「とにもかくにも補導站を作ってね。お分かりになると思うが、設立しないと、大きな災難は身にふりかかるに違いない」と私に言いました。この話を聞いて、心理が弱い私は心の空白を埋め、圓満を求め、胡お姉さんの「恩返し」をするために、もともと半信半疑な私が僅かに抱いた法輪功への疑惑がすっかり解かれてしまい、腹の中で補導站を立派にやろうと決心しました。

内心空虚な私は自宅に戻って傷の養生をしながら、胡お姉さんが帰ろうとした際に頼んでくれたことを思い出して、それに三日に上げず電話で催促されたため、私は自宅でプレーヤで法輪功のVCDを見たり法輪功の本を読んだりするようになりました。『転法輪』という本を読み、特に本に現れた科学的な術語を以って触れた宇宙や時空、パワー等に対する「新しい表現」、特に「真•善•忍」が宇宙最高な特質であり、善人と悪人を評価する唯一の基準である。この特質に順応するならば真の善人となり、それに背くならば真の悪人となる。この特質に同化されるならば道を得た者となる等の部分を読んだ際、私は心が強く打たれ、「真•善•忍」に順応同化する考えで、李洪志の「修して名利情を去り、圓満して蒼穹に上る」というデマに惑わされて、人民教師という職業の神聖さを完全に無視するようになりました。

その後、私はひたすら「レベルアップ」を目指すようになり、心には李洪志という「主仏」しかないと思い込んでしまいました。私は農民患者がお金を惜しむ心理や定年退職者が病気を取り除き寿命を延ばしたいという心理及び定年退職者の大衆への威信を利用して、まもなく法輪功補導站を作り上げました。補導站は自宅の母屋に設け、私は学習者への伝法を担当し、参加者が最も多かった時には60人を上回っていました。説法をするために、私は左手で小さな黒板に字を書き、ビラやスローガンを書いていました。私はさらに家族に伝えなければならないとすべての学習者に要求していました。私の法輪功補導站がうまく行っていることを聞いて、胡お姉さんはわざわざ車に乗って私の家を訪れ、李洪志大師を代表して私に「委任証書」を授け、500元の活動資金を出し、精いっぱい煽て上げてくれました。その後、私は正式に営山県法輪功補導站明徳分站の站長を担当して、法輪功補導站のちょっとした「人気者」となりました。

1997年7月、政府は法に基づいて法輪功邪教組織を取り締まりました。1999年の夏休みに、四川大学金融数学学部で勉学中の息子は里帰りした時、私が学習者を集めて法輪功を修練したことに断固として反対し、法輪功が邪教組織であり、科学を信ずるべきだと言って、私の法輪功VCDや法輪功の本箱を壊していました。ある日、昼ごはんの最中、息子と論じているところ、道理に詰まり言葉に窮した私は恥ずかしさ余って怒り出して、テーブルをひっくり返し、すべての碗や皿が割れてしまいました。息子を指差しながら、「大学に入って一人前になると思うか。法輪大法でさえ信じないか。まったく無知だ。今後、俺の息子じゃなくなる。出て行け」と叫びました。息子は怒って夏休みの半分にもなっていないうちに、涙をたたえながら学校に戻って、成都のあるレストランでアルバイトをしながら夏休みを過ごしていました。

李洪志の「真•善•忍」と「善人になる」や「修して名利情を去り、圓満して蒼穹に上る」というデマに惑わされて、私は昼に元気がないまま授業をしたり、夜になるとビラを配布に出たりしていました。2000年3月7日に、月光が暗いうちに、私は闇夜の暗がりに隠れながら、街頭や辻へ出て法輪功のビラを撒いていました。明徳街から帰宅しようとしたとき、すでに早朝2時ごろでした。当時、風が強く、雨も降っていました。村の出入り口にある二龍橋のたもとに辿った際、あまりに慌てたため橋の下に置かれた石板に落ちて気を失ってしまいました。目が覚めると、自分の左手が骨折したことに気付きました。朝に通りかかった人は私のうめき声を聴いて、村民を呼んで私の家まで担いでくれました。妻はビラ撒きのため骨折したことがばれることを心配したため、私は自宅に3日間にわたって閉じこもっていました。その日の夜になって、初めて少し整形外科に詳しい農村医者を呼んで診てもらいました。そのお医者さんは「これは粉砕性骨折だから、私も治療できない。直ちに県人民病院に行かなければならない」と言ってくれました。妻は慌てて120番を回し救急車を呼んで営山県人民病院へ送ってもらいました。レントゲン検査をした後、お医者さんは「粉砕性骨折だ。筋肉、骨が壊死したため、腕を切断しなければならない」との判断をしました。再度腕を切断しなければならないと分かって、自分が胸を抉られるような思いをして、妻は見も世も無く泣いていました。3月13日の午後、私は手術室で腕の切断手術を受けてしまいました。

目が覚めると、右腕がない私は左腕も失われて涙で枕カバーがぐしょぐしょになってきました。このことに接した息子は休みを取って成都から営山人民病院にやって来ました。息子は病床の前で私をじっと見ていて、何も言えなくなりました。私の頭を抱きながら、息子は涙をこぼし、妻も泣いて、一家三人はともに両眼を泣きはらしていました。

4月19日に、退院手続きをした後、両腕の失われた私は心の重荷を背負い、6千元にも達した債務を抱えて、よろよろ明徳への定期バスに乗りました。

自宅に戻って、これは法輪功の修練によって報いられた「業力消去」や「圓満」なのかと私は繰り返し自問しました。その後、邪教反対志願者の援助の下に、自分が理性的に考えた結果、法輪功によって私の両腕が失われ、私の家庭の幸福が奪われ、私の人民教師という光栄なイメージが汚されたのではないかと私は次第に分かってきました。

私はようやく法輪功という悪夢から目が覚めてきました。学校の責任者、学生たちの父兄の前で、「委任証書」や法輪功VCD、李洪志の本、法輪功の宣伝ビラ及び煉功用録音機などを全部息子に焼き捨てさせました。それから私は口述して、息子に始末書を書いてもらい、学校の責任者に処理してくださいと要求しました。私は相変わらず法輪功を信じている人々に、明徳の「人気者」であった私の結末を説明しておきたいのです。李洪志に追随したこの1年間、私は両腕が失われました。これはまさか法輪功や李洪志への敬虔による報いではあるまいか、まさか法輪功の追求する圓満ではあるまいか。今になって自分も信じられないほど、なぜ当初李洪志のたわ言を信じていたのでしょうか。

10年も経った今日、私は自分の法輪功に溺れていた経歴を思い出し、空っぽになった両袖を見るたびに、肺腑を抉られるほどの痛みを感じるようになり、誤って邪道に陥ったことを悔やんでいます。

現在、私はまもなく定年退職になりますが、息子がすでに大学を卒業して省都にある銀行に就職しており、福州に出稼ぎに行った娘も所帯を持ち幸せな生活を送っています。これこそ私の追及している真の円満であり、李洪志の言った「圓満」がまったく人々を墓場へ導くペテンではないかと思います。

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