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趙桂鳳:劉仁芳死体遺棄案を計画

2010-12-23 ソース:Kaiwind 作者:趙桂鳳

2001年7月19日、新華社は「人権を踏みつけたもう一つの証拠――李洪志とその法輪功が罪を隠すため死体遺棄事件の真相」という記事を発表した。その日の夜、中央テレビ局の番組「焦点訪談」は「法輪功:大惨事、死体遺棄と痕跡消滅」という内容を放送した。両方とも同じ事件だった:四川省郫県湯原郷報春村にいる法輪功練習者劉仁芳(女性、1948年生まれ)は北京へ「法を正す」途中、河北省三河市燕郊鎮にある借りた部屋で病死した。事実を隠すため、李洪志の暗示と法輪功本部からの指示の上で、他の法輪功練習者は彼女の死体を遺棄し、痕跡もなくした。

以上は本当の事実である。私はその死体遺棄事件のリーダーと計画者だ。当時「焦点訪談」のシーンには、わたしの画面も映った。

趙桂鳳といい、女性、1960年7月に生まれ、出身は吉林省長春市だ。大学受験制度が回復した二年目――1978年に長春中医学院(現在は長春中医薬大学と改名)針灸学部に入学した。1983年卒業してから吉林省長春にある中国一汽の社員病院に医者として勤務づけられた。

1995年5月から、いい人になりたく、「真善忍」を修練したいという念願を抱きながら、法輪功の練習を始め、長春市一汽二区垈山公園練習所の補導員にも担当した。法輪功と出会った前の私は医療技術がうまく、仕事に対して態度が真面目だから何回も先進社員と評価された。しかし、法輪功に溺れてから、人から頼まれても、患者の苦しみをみても、わたしは全く無関心になった。それは「罪業を消却しているのだ」と思い込んだから。一方、彼らの「業力」が私に移ってしまうことも恐れていた。

私は法輪功に対する忠実と精進は法輪功長春補導総站に認められ、褒められた。彼らのアレンジとして、私は一部分の練習者を連れて1998年12月4日吉林テレビ局を取り囲む活動と1999年7月21日、22日省委員会と省政府を取り囲む活動に次々と参加した。

政府は法律に従って法輪功を取り締まってから、私は生みの親に死なれたかのように感じた。政府の決定に対して非常に不満だった。李洪志が発表し続けた経文に催促され、「情を断つ」、円満、「白昼成仏」など邪説に騙された私は年取った親と幼い子供から離れて、夫を隠しごまかして何回も「法を正す」ため上京した。回数が多ければ多いほど、法輪功の肝心人物もたくさん知り合った。中に、省、市レベルの補導站站長、副站長もいた。彼らは私のことを法輪功本部の童欣(ここは偽名で、本当は葉紅といい、法輪功肝心人物葉浩の娘だ)に推薦した。童欣の直接指揮を受けた上、私は「築心」(法輪功は強い心を築いてくれた意味)を偽名とし、福建省、江西省、広東省、内モンゴル省など20箇所へ連絡活動をしに行った。私の精進と壮挙は法輪功本部に何回も褒められた。童欣は私に言った:「師匠はあなたの「法を広げる」行動に対し、非常に満足している。間もなくあなたは円満になる」。師匠の肯定は私の意欲を膨れられた。私は一杯なった風船みたい、元気満々で法輪功練習者に北京へ騒ぎを起こすように煽てた。

2000年12月、法輪功本部は明慧サイトを通じて、新世紀元日子の刻に天安門広場へ行って「法を証明してくれ」と指示した。つまり2000年12月31日夜11時から2001年1月1日1時までの間。まもなく「円満」になる「精進」な法輪功練習者として、こんな千載一遇のチャンスを見逃すもんか。わたしはもう一度北京に行った。しかし、夜の天安門広場が封鎖されたため、私たちの「白昼成仏」の夢が実現できなかった。

元日「法を証明する」ことが失敗したため、春節の間、もう一度天安門広場で集まろうとお互いに約束した。しかし、大晦日の日、天安門広場で焼身自殺事件が起きた。そのあと、童欣は私に言った:「師匠は今度の事件を予想していなかった。もし起きなければ、終えるつもりだ。」童欣ははっきり言っていなかったが、私はすぐ理解した:これは師匠から私たちに続けて「法を証明してくれ」と要求されたのだ。

そして、2001年2月10日、わたしはもう一度上京した。北京市通州区のある借り部屋で行われた「法会」に参加した。会場で私は童欣の指示をみんなに伝え、法輪功練習者が歩き出して、さまざまな形で「法を証明してください」。そうしないと、他人より一歩遅れになり、一生円満できないよと煽てた。私の演説、特に師匠の最新指示を伝言したら、みんなは喝采してくれた。「法会」の後、一人の男性法輪功練習者は密かに私の耳に秘密を言った。難題を与えられた。

去年の年末、四川省出身の女性法輪功練習者は元日までに天安門広場で「法を正す」途中、河北省三河市燕郊鎮の借り部屋で病死した。死体を片付ける人がいなく、法輪功のバッジと宣伝軸物が身につけたままだった。男性法輪功練習者の話によると、その病死した人は家にいた頃病気があり、来る途中咳がひどかった。しかし、彼女は薬を拒否し、家族の阻止に頓着せずに上京した。病気が重くなっても、師匠が「罪業を消却」してくれることを望んだ結果、部屋で病死した。あの頃、みんなは彼女が元日より早く円満したと思って、ほっといた。元日にみんなはあわてて天安門広場へ法を正そうとしたが、天安門広場に行く途中捕まえられて実家へ送還された。こうやって、死体が部屋に40日間以上いた。部屋の中は暖かいし、空気もよく通っていないため、死体が腐敗になれば、非常に臭くなる。部屋の借り期限もそろそろ切れるので、それまでにちゃんと処理しないと、法輪功に悪い影響が与える。

以上のことは私を驚いた。十数日前起きた天安門広場焼身自殺事件は盛り上がっているところだった。しかし、明慧サイトで、自殺した人は法輪功練習者ではなく、自殺事件は政府から法輪功への中傷だと言った。多く法輪功練習者はもちろん明慧サイトの宣伝を信じたがっていたが、一部分の練習者は惑った。実は法輪功の幹部である私たちは明慧サイトが嘘をついたことがわかった。なぜかというと、今度の「法会」の参加者には河南省開封市の人がいた。その人の中に、焼身自殺者王進東、郝恵君と劉春鈴などの知り合いがいた。彼らは正真正銘の法輪功練習者だ。もし「法を正す」ため、人が死亡した情報が漏れ、警察や政府に知られたら、マスコミに暴露されると、法輪功が人を殺したもう一つの確証になるし、法輪功の声望が衝撃される。こう考えると、「この事件を漏らしてはいけない。情報をきちんと封鎖してください。疑問を避けるため現在もっとも大事なことは死体を運び出すことだ。同時に部屋をきれいに片付ける。法輪功と係る手掛かりは一切残してはいけない。」

しかし、死体をどこに運べればいいのか自分はわからなかった。現場にいる7人の幹部と検討してみた。初めは病院の霊安室がいいと思ったが、みんなは簡単ではないと思われた。どこの病院の霊安室でも行きたいならいけるところではない。警備が必ずいる。それに複雑な手続きも必要とされる。私たちは死亡届さえを手に入れることもできなかった。一番肝心なところは、死んでから随分時間が経ってしまったことをどうやって説明すればいいのか。どこかを掘って埋めようと提案した人もいた。しかしどこがいいのか。それに現在は冬で土は非常に硬かった。穴を掘るには面倒だし、時間もかかりそうだ。さまざまな提案を考えたが、一番いい処置は思い出せなかった。そして私は北京の法輪功支部に相談を乗ってもらったが、彼らもいい方法なかった。この事件をきれいに片付けるため、アメリカにある法輪功本部に伺いと立てることに決めた。

あの頃、一般の法輪功練習者は本部と簡単に連絡とれなかった。したがって本部に連絡取れる人はそれで自慢していた。当時の私は多くの人に応えられたのは自分が精進している以外、いつでも法輪功本部と連絡できるし、直接本部の指揮を受けることだから。電話が盗聴されることを避けるため、いつも秘密なネットアドレスで本部と連絡を取っていた。合図に応えてから、(毎回連絡の末に今度通信の合図を決める)音声チャットで交流するのだ。私はコンピューターについて一切わからないため、ネットアドレスをいつも傍にいる白野(男性、長春市出身、当時は長春中医学院の学生だった)に任せた。毎回の交流は、まず白野がアクセスしてくれてから、私は直接話すという形になっていた。しかし、あの日、たまたま白野はそばにいなかった。

したがって、周根正(男性、ウルムチ出身、元新疆法輪功総站副站長)に法輪功本部の国内窓口を探してもらった。できれば師匠からこの事件の解決案やアドバイスを聞きたくて直接師匠と話ができればいいと思った。しかし、周根正はアメリカの窓口と連絡とれなかった。

その時、ある人(名字は鐘といい、名前は不明)から、窓口二人の電話番号を提出してくれた。一人はアメリカにいる法輪功の肝心幹部張宇だった。面会したことはなかったが、音声チャットで連絡したことはあるので、一応知り合いだった。電話が通じてから、私は世間話をする余裕さえなくて、直接彼に李洪志に会えるかと聞いた。何の用だと聞かれ、非常に大事なことだと答えた。そして電話録音の準備で待たせた。準備ができてから、この事件の経緯を話した。最後に私は言った:「師匠よ、この事件がきれいに片付けられないと、私たちは刑事事件に巻き込まれてしまう」。しばらく、張宇から李洪志の指示を伝わってきた。「師匠は三日前からこの件を知った。師匠は自分も仕方ないと言った。具体的なやり方はあなたたちに任せる。」それを聞いた私はがっかりだった。しかし考えれば、これは師匠が与えてくれたテストのではないか。こう思った私は現場にいるみんなに言った:「私たちで決めよう。師匠はこの件を知った。どうせ私たちの法を正す気持ちを分かってもらえばいい。」

私たち7人は作業分担に忙しいところを、あるアメリカからの電話が先の携帯にかかってきた。出たら、あの人は「こんな面倒な事件が起きる際、いつも個人行為で始末するだ」と言って切った。同時の私はあんまりにも忙しかったので、別におかしいと思わなかった。今考えれば、あの電話の意味がわかった:つまり、何かあったら、自分で責任を取ろう。法輪功とかかわっているのを言うな。

作業分担の結果として、2月11日の夕方、鄭氏と姜氏二人の法輪功練習者はタクシーで燕郊鎮へ行って、場所確認と遺棄場所を選んだ。実際に来てからわかったが、部屋のドアは鋼板で作った防犯ドアだった。窓も閉まっていた。入る手はなかった。この情報を聞いた私は、一方彼らに隣人や警備の人を通じて大家に連絡してもらった、一方あの部屋に住んだことのある人に鍵は残っているのかを内部で聞いた。

2月12日午後2時頃、昔あの部屋に住んだある法輪功練習者から鍵をもらった。そして7人は馬氏という法輪功練習者の車に乗って河北省三河市燕郊鎮にある部屋へ駆けつけた。

部屋の面積は120平米未満で、カーテンはきちんと閉まり、部屋にはごちゃごちゃだった。死体はすでに臭くなった。でもそれを考える暇はなかった。一番大事なことは、「大法」を邪魔している「魔」の死体を運ぶことだった。死体につけた法輪功のバッジと「法輪大法はすばらしい」という軸物を外し、準備したプラスチック布を床に置いて、死体と布団を一緒に包んだ。そしてテープで死体に何回も巻いて固定してから、車のトランクに入れた。

当時の私たちは、この女性の死体は誰か、どうして死んだのか、どこから来たのか、家族は知ったのかなどは全く無関心だった。私たちの注意点は部屋に残した法輪功の書類と軸物だった。死体の法輪功練習者身分と遺棄証拠を隠すため、二人を残して、部屋の整理と掃除をしてもらった。

車は辺鄙の道で何十キロも走った。北京市通州区まで来たのに、事前選んだ遺棄場所は見つからなかった。今からみれば、遺棄場所の選択を担当した人は明らかに嘘をついた。彼は私たちにもともと選んだ場所が見つけられないと言ったからだった。交差点のカメラは車のナンバープレートを摂ったらまずいと思ったので、大通りは走れずに、目的もなくてあちこちに走り回っていた最後、道も迷った。場所選択を担当した人は:「川で捨てよう」と提案した。みんなもそのほうがいいと思った。17時頃、車は通州区高古荘村涼水河の北岸にきた。「河の左岸辺には用水門の開閉扉があり、とても臭いから、あそこに捨てよう」と運転した馬氏が言った。回りには誰もいないし、川も深そうだから、私は別に異議を出していなかった。死体が汚れた川水に巻き込まれていったのを見た私は心は不安だった。いくら彼女の死体を「大法」を邪魔する「魔」と言っても、死体遺棄はいいことではなかった。別れた時みんなに何度も注意した「このことは他人に言ってはいけない。知ったものが少なければ少ないほど。」

通州区の集会場所に戻ったら、白野から私に童欣が伝わってきた法輪功総部の要求というメモを渡した。大体の内容は:明慧サイトは法輪功の窓口で、彼女は国内法を正す行動の第一人者だ。国内の幹部にはコピーが必要だ。私はすぐわかった。童欣の意図はほかの幹部を養成し、連絡方法も彼女に教えろ。万が一、私たちが捕まえられても、彼女は国内の動きを続けて指揮できる。今から見れは、彼女は腹黒い人だった。しかし当時の私は自分みたいな「高次元」の法輪功弟子なら、警察に捕まえられるもんかと思い込んだ。活動を続けようと決めた私は、まず東北の実家へ行ってから、前回会議であった幹部らと一緒に南のほうへ行くと予定した。行く前、周根正を通じてアメリカの張宇に「前話したことはうまく解決した。師匠に伝言してください」と連絡した。

北京を離れ、遼寧省旅順市に到着して一週間もない時、法輪功練習者から、通州の集会所は警察に見つけ、死体遺棄に関する私以外の全員を捕まえたと聞いた。彼らは絶対私のことを警察に言うと思ったので童欣にどうすればいいかと連絡した。童欣は「コピー」任務が終われば、特殊な手段で外国へ行けばいい。彼女たちは協力してくれると言った。しかし、2001年4月16日、李洪志の「法身」はわたし、間もなく「円満」になる「精進」の法輪功練習者を守らなかった。私はやはり警察に蘭州にある集会所に捕まった。警察の尋問に対し、一切黙った。四川、北京、長春の警察に死体遺棄のことを聞いても素直に答えたくなかった。

10年後、私はずっと恥ずかしくて言えなかった死体遺棄のことを書き出すのは、良心の苦しめに耐えられなかったからだ。死者、死者の家族に深い謝罪とお詫びをしたい。法輪功に溺れたすべての人は私のことをもって戒めとし、李洪志と法輪功の罪悪を認識し、早く目を覚め、社会と家族に戻って、やり直しように心から祈っている。

凱風サイト, 2010-08-26)

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