王利発
私は王利発と申し、1950年9月生まれ、山東省寿光市大洼塩場の定年退職の労働者であり、連れ合いは優しい農村婦人であった。夫婦二人は、20ムーの田畑を作り、勤勉に生活を送っていた。二人の息子と一人の娘は大学を卒業してから、みないい所に就職してくれ、村の隣人たちに羨まれた。
1997年、連れ合いは、田畑仕事をする時めまいを感じた。病院に行くと、高血圧だと診断され、医者に毎日、薬を飲むようと言われた。家へ帰った後、医者の言うどおりに飲むと、体の具合がだんだんよくなり、めまいを感じたことがごく少なくなった。
1998年の春節の頃、連れ合いと一緒に大北河村へ里帰りをした。老友の孫秀娥と出会うと、孫が連れ合いに世界で一番いい気功である法輪功を修練しようと積極的に勧めた。孫は、「もし法輪功を修練したら、薬を飲まなくても、注射しなくても、どんな病気が治れるよ。修練を通じ、『次元向上』、『圓満成就』に達することもできる。」などと鼓吹した。実は、前も法輪功を修練すると元気になったとか、その功について聞いたことがあるから、連れ合いは、ちょっと法輪功に興味を持つようになった。
家に帰った後、『転法輪』を買って、連れ合いは法輪功を修練し始めた。好奇心強い私も、一緒に修練した。連れ合いは、毎日修練したり、『転法輪』を読んだりして、だんだん李志洪の言うことを信じるようになった。一方、私は、あまりそんなことを信じなく、ただ健康によい体操のようなものと見なした。農村では、迷信を信じる女性は多い。そのため、連れ合いが法輪功に熱心するのも気にしなかった。
1999年、国家は法律に従って法輪功を取り締まった。そもそもそういう論説を信じなかった私は、すぐ修練をやめた。しかし、連れ合いは、ぜんぜん納得せず、密かに修練し続けた。それに、「消業」とかのことを確信し、高血圧の患者にとって大切な降圧薬も飲まなくなった。薬を飲もうと勧めると、「人生の病は、全部業力に引き起こされたのだ。薬を飲むことも注射することも業力を抑制するだけだ。法輪功を修練する限り、業力を消すことができる」と言い返し、私が修練を邪魔する「魔」だと話した。
2001年、李洪志は、修練者が出かけるのが重要であり、「法」を宣伝したら、「次元向上」、「圓満成就」になると公言した。功友からこのニュースを聞き、連れ合いは、自発的に宣伝ビラをまく活動に参加した。公安機関に発見されないために、連れ合いと功友たちは、お昼の代わりに深夜から払暁まで外で法輪功の宣伝ビラを貼り付けた。徹夜して家に帰らないことも日常茶飯事になった。もっとひどいのは、私が知らないままに貯金を取り、宣伝用品の購入に用いた。息子と娘は、もう成年になり、我々が支援する必要がなくなったが、そのお金は、何十年も節約して少しずつためて出来上がったのである。連れ合いは、前にはどんな苦しいことにあっても貯金を使わなかった。
法輪功に陥った連れ合いに対して、私は、いろいろな方法を試し、勧めようと頑張った。しかし、心配してもう白髪頭になってしまった私に対して、連れ合いは「法輪功の修練には、名?利?情を手放すべきだ。まじめに修練しない上に私の修練を邪魔するあんたは、きっと悪い報いを受ける」と冷酷に言ってくれた。私は、徹底的に失望してしまった。
長期的にびくびくして徹夜に渡って「仕事」をし、飲食の時間も混乱し、そして薬を飲まないため、連れ合いは、血圧がまた高くなった。いつもめまいを感じ、息苦しかった。私と息子たちは病院に行こうと勧めたが、彼女は、「法輪功を修練する人は、病気なんかかからない。師父の法身が守られているからだ。今、体の具合が悪いのは業力の表しで、修練したらすむ」と依然としてそれなりの論理を主張した。すると、連れ合いの病状はいっそう悪化し、座禅を組む時、汗びしょびしょになり、身体が冷たく、顔色も青ざめていた。しかし、彼女は、師父が消業してくれると確信していた。ある日、連れ合いは修練するときに倒れ、私は急いで120救急電話をかけ、やっと彼女の命を救った。医者は、厳しく我々を叱った。連れ合いは、高血圧なのに時間通りに薬を飲まなかったゆえ、心筋梗塞を引き起こした。高血圧の患者は、毎日薬を飲むのが重要であり、激しい活動を避けるべきである。
このことを通じで、連れ合いはちょっと法輪功の「消業」効果に疑問を持つようになった。薬を再び飲み始めてから、体の具合もだんだんよくなった。あいにくなのは、功友に発見され「それが師父への不忠だ。もし、治療を受けたら師父がきっと消業してくれない」としかられた。その後、功友に批判された連れ合いは、薬を全部ゴミ箱に捨て、私と息子たちはどんなに勧めでも、ぜんぜん耳を貸さなかった。
このようにして、連れ合いの病気はますます悪化になり、2003年3月ある日の深夜、座禅を組んだ連れ合いは、急に気を失って倒れた。救急車がきた時、すでに間に合わなかった。彼女は最期の際にも「法輪大法が最高だ」と言い繰り返し、師父の保護を祈っていた。病院からの検定によると、妻の死因は急発性心筋梗塞である。妻の行年は55歳であった。