徐新妹は47歳、浙江省湖州市南浔鎮浔南村に住んでいる。1987年、23歳の徐新妹は、同村のある大工と結婚した。二年後、一人の男の子が生まれた。普通の子供は三ヶ月の時になると、抱いて立てることができ、自分の子供は、八ヶ月にもなったが、ぜんぜんできなかった。医者にみると、脳性麻痺と診断された。子供をつれ多くの医院に行ったが、効果がなく死んでしまった。
三年後、娘の暁英の生まれはこの家族に久しぶりの歓楽をもたらしてきた。そしてこの家族の生活はだんだん豊になった。しかし、不幸なことはまたこの家族に襲った。暁英は、七歳の時慢性肝炎にかかり、夫婦二人は、仕方なく再び病院に通い始めた。しばらくの治療を経て娘の病状はコントロールされたが、体がよわいため、依然として楽観的ではなかった。徐夫婦は息子を失った経験があるので娘のことがもっと肝心にした。毎日も娘の健康を祈っていた。
1999年正月十二日の縁日に徐新妹は娘をつれ人民広場へ散歩しに行った。にぎやかな人々の中から誰かが一冊のパンフレットを渡してくれ、見ると扉に「法輪功消業去病」、「一人が修練、家族が収益」が書かれてあり、徐は、急に「あ、やっと、娘が救った」と感じるような気がした。
家へ帰った後、彼女は『転法輪』、『法輪大法义解』などの書籍を買い、むさぼるように読み始めた。徐の高い文化学歴を持っていないけれども、李洪志に対する熱狂のもとで、李に関する一切のことを信じるようになった。「経文」に描かれた「何でも入手できる」「円満世界」に引きかれた彼女は、法輪功を修練すると娘の病気が治られると確信するになり、前には息子を失うのがきっと自分が業力の重い息子に消業してあげなかったからだと思った。そのため、いま法輪功を一生懸命に修練し、娘に消業してあげなければならない。同時に、娘も一緒に修練させようと決意した。その後、娘は、母の徐新妹の影響を受け、薬、注射などの治療の代わりに法輪功を修練し始めた。
隣の人々は「止めよう、子供によく治療させよう」と何度も勧めたが、徐新妹はちっとも耳を貸せず自分と娘の修練をし続けた。娘の暁英がちょっと元気になるたびに、徐新妹は必ず本の功法をみようみまねて暁英と一緒に修練するのであった。彼女はいつも「敬虔に修練するかぎり精進られ、師父の守りを得るころができる」と娘に語るのであった。
しかし、時間の経つにつれて、暁英が治るどころか、病気がいっそう悪化してしまった。いつも吐き気、熱、肝痛などの病状が出て、床についたきり起きられないまでになった。それにしても、徐新妹は法輪功のいわゆる「効果」に疑いを抱いていなかった。
2002年2月、親友に繰り返して勧められた父は、修練を放棄しようとしていた。しかし、徐は頑として反対の態度を示し、娘が消業できなかったのは夫の揺れのせいだと認定し、夫の障害は師父からの試みで、せっかく自分と娘は修練し続けてきたのにいま放棄するのは不可能だ。放棄ならきっと罰があたると思った。
2003年6月から、徐新妹は娘に消業するためには修練するとともに、他人に法輪功を伝えることを通じ心性を高め、「次元向上」するなどと輪をかけた。その時、彼女は家事なんか興味を持たなくなり、いつも一日中ずっと南浔人民広場に座り、他の人に法輪功のことを鼓吹したり法輪功の経文をみせたりしたのである。
2004年12月、暁英の病状がますます悪化し、患部が痛くてたまらなく高熱も出し続けていた。師父が守られてくれると確信した徐は机にあるお守りを礼拝しながら、「師父、師父、師父が修練者から離すまい」と呟いていた。徐の夫はこの状況をみてもう仕方なくなり、隣人の勧めを聞いて急に悟った。妻の妨げを突破し、急いで娘を南浔人民病院に送った。しかし、医者が徐新妹夫婦に肝臓癌末期だと伝えた時、徐の反応は以下のようである。「私のせいだ。我々が敬虔の要求に達しなく、『次元向上』を実現しなかったので、師父が娘の暁英を守ってくれなかったのだ。」
手術、放射線治療、化疗など一ヶ月間の治療をしたが、癌細胞が大面積に拡散し、2005年1月、12歳しかない暁英が永遠にこの世から去った。