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張鴻鑫:若い妻の命が法輪功に奪われた(写真付)

2011-12-22 ソース:Kaiwind 作者:張鴻鑫(口述)陳健(整理)

李暁虹の遺影写真

張鴻鑫と申し、1962年に上海闸北区に生まれ?上海市沪太路に住んでいる。妻の名は李暁虹だ。年齢の差は十歳があったが、一目惚れで知り合ってから一年もなく結婚した。翌年に息子が生まれた。しかし、出産した後、妻は出産のせいで太った体を痩せらせるため、他人に煽てられ、法輪功の練習をはじめ、これで自分の命を失った。

1998年の夏、息子は一ヶ月になったばかりだった。妻は法輪功を練習すると、様々な病気が治り、出産で太った体を出産前に痩せらせると聞いた。美しい好きの妻は法輪功練習者に何回も言われたうえで、法輪功の練習を始めた。間もなく妻は法輪功に溺れた。家にいるとちょっと余裕ができたら青い表紙の「転法輪」を読んでいた。読書が夢中になると、息子のおしめが濡れても交換したくないし、息子がお腹がすいて泣い出したが授乳をしてやらなかった。

半年後になると、妻は夜中でも起きて練習しに行った。冷たい冬さえ、絶えずに法輪功練習点に通っていた。ある日、妻は風邪を引いた。一ヶ月間ずっと咳をしていた。医者さんに診てもらおうと勧めたが、固く断れた。「病気なんかじゃない。師匠は言ったわ、練習者は病気にかからない。練習中、病気になったような気がする。それは師匠が弟子に罪業を消えてくれた正常反応だ。罪業が消えつつ、病気にかかった感覚も自然に消えていく。心配する必要はない」と妻に言われた。

私はずっと妻のことを可愛がってきたので、妻のいやなことならを無理にやらせたことは一回もなかった。今度、長期間咳をしていたため、何回も病院へいこうと勧めたが、妻はどうしてもいやだった。そのため、喧嘩したこともあった。結局妻の意見に従った。

数か月間が過ぎた。妻の咳は治るところか、痰の中に、血が出た。病気を治す希望を全部法輪功に託した妻は、私から病院へいこうと言われるのがいやなので、痰に血が出た状況を隠した。徐々に、自分の咳に慣れた妻はますます痩せてきた。

2001年妻の痩せ方を見て、どうしてもほっておけないので、妻の両親を呼んで、一緒に病院へ行こうと勧めた。妻はそれを知ったら、私に怒った。私は練習の道に邪魔した「魔」だと言われた。

妻は静かな練習できる場所を探すため、仕事をやめ、子供を捨てて練習者の家へ行ってしまった。しょうがなかったわたしは全部の家族を上げて人探しを始めた。三日間後、妻の両親はようやく妻を見つけた。妻は幼い息子を思ったから帰ったと言った。親に病院へいこうと言われた時、妻はすぐに言い返した:「わたしには師匠が守ってくれている。余計なおせわをするな。」妻の両親は妻の頑固さを知ったので、これ以上言わなかった。

2003年の夏、2005年の4月に、妻は「転法輪」の言葉を法輪功宣伝用カードに作り、近所の住人のメールボックスとドアの隙間にひそかに入れた。妻の父親は妻の行動に怒って卒中になり、あれ以来ずっと寝たきりだった。

全家族は妻を勧めた。一か月間になってから妻の考えはようやくちょっと変えた。大きくなってきた息子、妻のせいで寝たきりになった父親、体の弱い母親の涙、私とお姉さんたちの期待していた目をみて、妻はようやく騒がないことに同意した。

しかし、ほかの練習者は妻が来ないことに気付いて、妻と再度連絡した。これで妻はまた出かけた。

私の質問に対し、妻は言った:「練習者に注意されてよかった。私はすでに神の道に歩いて間もなく円満になる練習者だ。現在やめると、いままでの努力は台無しになる。師匠は言ったわ、常人、法がない人、大法弟子を了解できない人なら大法と大法弟子を理解できない。確かにあなたと交流できない」。

妻はもっと敬虔に法輪功を練習した。妻の咳もひどくなり、体が痩せる一方だった。

2007年4月、妻は倒れた。ベットの前、吐いた痰にある血をみった。妻に医者さんに診てもらおうと要求した。妻は涙を流れながら言った:「私は大法弟子であることをわかっただろう。師匠ははっきり言った、大法弟子は病院へ行ってはいけない。病院へ行く人は破門される。もしあなたの言われたことに従えば、師匠は私を認めないから。これ以上無理されないで」。

妻を無理やりに病院へ行かせることはダメだとわかったから、私は言った:「病院へ行きたくなければ、薬を持ってくるから、これを飲んでいいだろう」何回も助言した上で、ようやく納得した。

三か月間が過ぎた。妻の病状はよくなっていなかった。妻の痩せた顔を見て、どうしても我慢できなかった私はもう一度全家族を動かして、病院へ行こうと勧めた。みんなの前で、妻はずっと大切にした経文を朗読した。そして枕の下から包まれた薬を出して私に言った:持ってきてくれた薬は全く飲んでいなかった。

数か月後のある日、妻は練習用の毛布で急に意識不明になり、私はすぐに病院へ送った。医者さんは妻のX検査の写真をみながら、わたしを責めた:どうして早く病院で治療を受けないのか。元々一般的な肺結核なのに、ここまで発展した。医者さんはその場で危篤通知書を出した。

妻を救う為に、家から何万元を病院に送り、ぜひ全力で妻を救ってくださいと医者に頼んだ。しかし、手遅れだった。妻は2007年7月28日朝、肺の機能衰弱で亡くなった。妻はまだまだ39歳だった。

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