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赫少立:母は円満に達する夢を抱えてこの世を去った(写真付)

2012-03-30 ソース:Kaiwind 作者:赫少立(口述)常平(記録)

王愛環の写真

2011年9月2日は母親の一周年忌である。我々兄弟姉妹三人は線香を焚いて墓参りをした。気持ちは悲しくて重かった。

母は王愛環と申します。1950年7月生まれ、河南省南楽県楊村郷の普通の家庭主婦であった。学校に通ったこともない母は田舎女性ならではの素朴温厚な性格を持ち、勤勉に働いていた。父親と一緒に我々兄弟姉妹三人を一人前の大人に育てた。長い間の労働で何種類もの病気にかかった。お金を節約するために彼女はよく病気の苦痛を我慢し、病院に行くことはまれであった。

1998年7月のある日、隣人の闫瑞欽はうちに来て、隣の村に法輪功を教える人がいると伝えた。「この功を学んだら、薬を飲まずに、病気が治り、元気が出る。自分の親戚も修練してリューマチ病を治した」云々と話した。

母はとりあえずやってみようの気持ちで隣人と一緒に隣の村へ数回聴講した。すぐ法輪功の病気治り、円満になる学説に心を引かれた。その後、法輪功を修練し始めた。

修練して病気を治すために、母は毎日修練所に行って修練していた。心理の暗示によるか、体が元気になると感じた。したがって、彼女は法輪功の宣伝員となった。本が読めない母は、たくさんの宣伝物やビデオを買い、すべての親友を家に招き、自分に従って一緒に練習させようとした。友達に『転法輪』を朗読させ、皆さんに伝え、もっと多いメンバーを法輪功に加入させようとした。

このような熱意は地元の法輪功の指導者の賞賛を得た。このままでいくと、数ヶ月後に「真修弟子」になるといわれた。これを知った母は家事をも、畑仕事をもせず、修練所から帰っても家で修練を続けるようになった。修練ばかりしている彼女は父親と別居しようとした。家族にとって泣くに泣けず笑うに笑えないことであった。

数ヵ月後、母親はまるで別人のようになり、顔が憔悴しきって、性格も変になった。我々三人は母親に法輪功の修練をやめるように勧めた。母親は怒り、「師父は法輪を腹に置いてくれたから、私はもう大法弟子になった。止めるわけがない」と言った。

1999年7月、国は法律にそって法輪功を取り締まった。母はこの現実を受け入れることができなかった。弟子たちが出て真相を広めるという李洪志の煽りを受け、母は友達数人と北京に行くことを決めた。しかし、北京まで行く途中で発覚され、家に送られた。

家族の説得で、母はこれから修練を止めると話した。静かになった母は暇なときに畑仕事や家事をするようになった。我々は嬉しかった。

しかし、平穏な日々は短かった。ある日、闫瑞欽はこっそりと母に「総所の指導者」がわれわれをお見舞いにくると伝えた。当時何の反応を示していない母は夜に口実を作って闫瑞欽と一緒に家を出た。大きな包みを持ち帰った。開けて見ると、中身は李洪志の写真、カード、ビラであった。私は母に「なんで元に戻ったの?これを家に持ち帰るなんてどういうことか」と聞いた。母は弁解もせず、李洪志の写真を部屋の真ん中に張り、敬虔に拝してから、包みを持って家を出た。

翌日、村中の門や壁の上には法輪功のビラだらけになった。人々はみんな驚いていた。私は母がやったことだとしり、帰って母に理由を尋ねたら、母は平気に「私と友達が貼っただよ。師父は『いまこそ試練の時、この時に身を出せる修練者こそほんとうの修練者、師父の弟子だ。師父の啓示をもらう円満に達する』と語った」と答えた。

これから、母はまた家で修練を再開した。

ある日、母は修練に専念して二日間も食事をしていないまま倒れた。私は救急車を呼んで病院まで送った。お医者さんによると、重い栄養不良と軽い鬱病であり、入院しなければならない。眼が覚めたら、母は自分が病院のベッドで横になっていることに気付くと、人生初めて私を殴った。「不孝者だ、(病院に入ることは)悪業を増やす」と叱り、注射の針を抜いてすぐ出ようとした。我々三人は彼女を阻止し、よく治療を受けようと勧めた。しかし、母は狂うように頭を壁にぶつかっていた。これを見て、お医者さんはとりあえず帰宅し、穏やかになってからまた入院するほうがいいと話した。母にちゃんとする食事と休みをとらせようにと言われた。帰っても、母はやはり修練を続け、どう説得しても、病院に行かない。

2008年の秋、母はよく激しく咳をしている。痰には血も含まれている。人も激痩した。私は病院に行って診察を受けようと促したが、彼女は「今は業を消している。私の今の修練の力では病気にかかることはない。余計な心配は要らない」と答えた。

二ヵ月後、咳はいっそう厳しくなり、咳血の量も多くなった。我々は無理やりに彼女を病院に連れて検査を受けさせた。結果は肺がんであった。お医者さんはすぐ入院治療をアドバイスしたが、診断結果を信じない母は私たちが自分を害していると信じ込み、治療に協力しなかった。結局、保守療法の薬をもらって家に帰った。

薬を飲ませるために、私は薬を砕けてご飯に入れた。見破った母に捨てられた。その後、母は食事を拒否するようになった。我々三人は跪いて、薬を飲むようにお願いしたが、心を変えようとしなかった。ただただ「師父の法身は守ってくれるから、私をほっといてください」とぶつぶつ言った。また、薬を飲まされるなら、自殺すると私たちを脅かした。

病気は重くなるにつれ、がん細胞は母の痩せている体を侵食してきた。痛くなるとき、母は両手で胸を押し、李洪志の写真を見つめ、経文を暗誦していた。彼女は痛みを我慢するのは業を消すだと信じ、苦痛を甘受した。

2010年9月2日、母の病気は悪化し、病院でなくなった。年は60歳であった。なくなる前夜、母は「師父、いつだったら私は円満になるの」とつぶやいた。このようなむなしい「円満に達する夢」を抱えながら、彼女はこの世を去った。

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