劉麗平の写真
周正一、草河口鎮職業技術学校の料理専攻卒、今遼寧省瀋陽市でバイトしている。父親の周大波は1998年11月に首吊り自殺をした。母親の劉麗平は2010年10月12日に乳がんで亡くなった。二人とも草河口鎮化学工場の労働者であった。二人の死は法輪功による惨劇であった。
周大波夫婦は1984年年末に結婚し、来年の7月15日に息子周正一が生まれた。1995年3月、夫婦二人が勤めている工場は倒産した。失業の後、二人は市場で野菜と穀物を売って生計を立てた。数年後、室外の冬の寒さや夏の暑さで劉麗平は症状が重い水虫にかかった。数多くの薬を試したけど、治らなかった。
1997年9月、ある常連のお客さんは劉麗平の病気を知り、彼女に『転法輪』とテープを送った。法輪功を修練するなら、お医者と薬いらずに病気が治り、もっとうまく修練すれば、円満の境に達し、天に昇ると語った。劉麗平は半信半疑で地元の修練スポットに行き、修練し始めた。いつも室内で修練するため、足が温度がふさわしい環境にあるようになった。また、修練に専念していたから、足の痒さにそれほど気にならなくなった。彼女はこれが修練の効果だと考え、もっと熱狂になった。
修練の進展につれ、劉麗平はただの病気治りに満足できなくなり、師父の李洪志に追従して自身のレベルを向上させ、神と仏になることを図ろうとした。すべての時間を修練に使っていた妻を、夫の周大波は説得できなかった。一人で家族を支える彼は昼に店に出てものを売り、夜には洗濯し料理を作っていた。
劉麗平は疚しい気持ちが少しでさえ感じなかった。そんな家族のあり方を当たり前のように考えた。彼女はよく夫に「一人で修練したら、家族全体に利益を与える。私の七光りを見せてあげるよ」と言っていた。
当時、家の壁は李洪志の写真一色であった。修練の音楽も一日中流されていた。劉麗平はよく友達を家に招いて修練していた。みんなで叩頭をしたり、香をたいたりするので、当時まだ12歳の周正一は勉強に専念できないばかりでなく、夜に悪夢を見ていた。
周大波は息子をおばあさんのところに送り、そこで暮らさせた。周正一の話によると、当時、家に帰る勇気さえなくなった彼は父を思うたびに市場に行って会う。憔悴しきった30代の父親は50代の人のように見えて、ひげも髪も乱れていて、服も汚かった。
1998年11月のある日、周正一は市場で父を見当たらなかった。周りの人に聞くと、三日間も店に出なかったということである。
家に帰って母に聞くと、「三日間前に私と喧嘩し、家を出た。その後は現れていない。おばあさんの家に行ったじゃないと思う」といわれた。
喧嘩の理由を聞くと、劉麗平は家族が節約して貯めた1万元を寄付したという。周正一は爺さんと婆さんに連絡を取り、父の家出を警察に通報した。
二日後、周大波の遺体は山林で発見された。法医の鑑定によると、彼は木に首吊り自殺をした。
夫の死は劉麗平に目を覚まさせなかった。葬儀さえ参列しなかった彼女は悲しい気持ちを抱えていないようであった。
1999年1月、爺さんと婆さんは周正一の戸籍を両親の家から自分の家に移した。これから、劉麗平との往来が絶えた。
1999年7月、国は法輪功を取り締まった後、劉麗平はやはり修練をこっそり続けた。
1999年年末、警察と役所の人は婆さんの家に来て、劉麗平が失踪したと伝えた。みんなは鎮丸ごと捜したが、結局見つからなかった。
周正一の成績はこれによって一直線に下がった。2001年の夏、高校の受験の成績がひどかったから、彼は職業技術学校を選んだ。両親の家は誰も清掃しないために、雑草に覆われた。結局、爺さんと婆さんはそこを安売りした。
家族はチャンスあるごとに、劉麗平の近況を調べようとし、警察にも立案させたが、劉麗平は十年中に姿を見せなかった。みんなが帰らぬ人だと信じた。
2010年9月、瀋陽で出稼ぎをした周正一は叔母さんからの電話をもらい、母が帰ったということであった。劉麗平は乳が痛いと言っている一方、病院での治療を拒み、ただ家で座禅をするばかりしていた。彼女は朝から晩まで李洪志に祈り、救いを求めていた。
周正一は十数年ぶりに母と会うとき、母はすでに別人のようになった。肌が黒くてやせている母は目がどんよりし、すこし猫背になった。どうやってこの十年間を過ごしたかと聞くと、終始無言のままであった。
周正一は母を病院に連れようとするとき、母は「師父は私の体を整えているんだよ。正念を発したら治る」と話した。結局、みんなは彼女を無理やりに本渓県第二人民病院に入院させた。医者の診断によると、乳がん末期であり、がん細胞が転移した。
2010年10月12日、45歳の劉麗平は円満への思いを抱えてなくなった。なくなる前に、まだ李洪志が自分を苦界から救ってくれることを望んでいた。
周正一の家族は法輪功の侵入で崩壊したのである。