ここの険しい山道は母が墜落したところ
張小敏、今年32歳、四川省漢源県桂賢郷の出身である。母親は李源珍と申し、1955年生まれ、中学校卒である。父親は喘息にかかり、冬になるたびに病状が悪化し、働く能力を持っていない。家計は母一人で野菜栽培や販売で稼ぐお金に頼っていた。
家から数キロ先には烏斯河鎮という町がある。そこはいくつかの道の交差点で、駅もあって、周りの民衆はみなここに来て物を売買する。母もここで野菜を売っていた。
1996年夏のある早朝、母が野菜を売りに行く途中で黄蓮花と知り合った。黄蓮花は小堡郷病院のお医者さんである。母の辛さと父の病状を知った彼女は母に法輪功を修練するように勧めた。彼女は「一人で修練したら、家族に利益がある」、修練を通じて母親が元気になるばかりでなく、父親の業を消すこともできると語った。
母は普通の農民である。医者の黄蓮花まで法輪功を修練している事実を聞き、父がいつも薬を飲んでいるし、とりあえず修練してみようと考えた。すると、黄蓮花から『転法輪』と座布団をもらった。
帰ってから、母は父と一緒に修練しようとしたが、父は信じなかった。母はどうせ「一人で修練したら、家族に利益がある」だし、自分がうまく修練すれば、父親の病気の業も消えただろうと思い、一人で修練し始めた。
最初の時、母はまだ家族の面倒を見ていて、野菜を売りに行くことも絶えなかった。1997年8月、私は技術学校を出て、林産物会社に就職してから、彼女は野菜栽培と販売をやめ、父の看病すらしなくなった。
母は父のために漢方薬を煎じないばかりでなく、父自分が家で漢方薬を煎じることに反対する。薬煎じが修練に悪影響をもたらすといった。しょうがない父は、薬を買った。しかし、母にみつかられたら、彼女は薬を直ちに便器に捨ていれる。薬飲みは業力を増し、消すのに大変だと言っていた。
喘息の発病はいつも冬に起きる。喘息は父の持病で、母が法輪功に夢中してから、父はちゃんと薬を飲んだことがない。結局、父は1997年11月末に倒れた。私は苦しんでいる父を見て、病院に送るつもりだったが、母は拒んだ。発病を自分が父の業を消している表しだとみなす彼女は、業消しの過程自体が苦痛に伴っていると述べた。もし病院という言葉を二度と口に出したら、私と母娘の縁を切るまで脅かした。
母を説得できなかった私は仕事で職場に帰った。まもなく、隣人から電話をもらった、母が狂うようになり、父も病状が危ないと聞いた。母が白いタオルを頭に巻き、白い綿入り服を着て、白い靴下を履き、合掌しながら部屋真ん中の白い板に座禅を組んでいる姿を急いで帰った私は見た。母はまたぶつぶつ何かを話している。
私は父の寝室に行き、上半身裸の姿で横になっている父が震えていた。微弱な声で何かを話そうとしていた。私は耳を父の口元に近づき、父が最後の力で「敏ちゃん、父はやはりだめだ。母を嫌がらないで、私が死んでから、彼女を…」と言い、目を瞑った。
私は父の死を例に母に修練を止めようと勧めた。しかし、母は父の死に対し悲痛を感じるどころか、李洪志の慈悲だと考えた。家に母一人しか残っていないため、一緒に都市で暮らし、お互いにお世話をみると母に言った。しかし、彼女は離さないことにしただけでなく、私にも修練させようとした。私の体がよく、うまく修練すれば大成になるとかと話してくれた。説得できない私は、彼女を都市に迎えてくる考えを打ち消した。
1999年7月22日、国は法律にそって法輪功を取り締まった。私はこのニュースを聞いて早速ふるさとに帰り、一緒に都市で暮らさせるように説得しようとした。母はやはり断った。このような法輪功の泥沼に陥った母に対し、私は感情を抑えることができず、大声で「法輪功はいったいどこがいいだ!父さんは業消しでなくなったのだろう…」と叫んだ。しかし、私がまだ話し終わっていないうちに、母は泣きながら、私をさして叱った。私はきっと報いに遭うと言い切り、私が修練を妨害する魔と断じ、家からどけ、これから縁を切ると言われた。
それから、修練の向上や円満達成の努力は母のすべてとなった。娘としての私、との感情も消えた。
2003年国慶節、母は私の結婚式に出なかった。2005年、息子を産んだときも私のところに来なかった。旧正月と休日に、私と夫は彼女と会いにいくが、母はいつも外で法輪功を広めたりする。会っても母と呼ばないでと私たちにいう。「師父の天目が上から見ている。もし、あなたとの感情を切らないなら、師父に叱られ、天譴に遭う」とも話した。
私は母に「修練してもう何年間もたったし、母さんもだんだん年になるし、外での活動はやはり控えめにするほうがいい。体を大切にしてください」と勧めた。しかし、母は「円満に達し、師父と一緒にあの世に帰る」の時点が近づいていると思い、「こんないいチャンスを逃がすわけには行かない。法輪功に忠誠を誓い、行動で師父に自分が正真正銘の弟子だと証明するなら、師父と一緒に法輪世界に行ける」と語った。
2012年1月1日の早朝、不祥な予感は現実となった。隣人から電話をもらった。母が近道をとり、烏斯河鎮に行く途中に峡谷に落ちたという。現場に駆けてきた私は目前の惨状に愕然した。母は目を開けたままで、岩のそばの芝生で仰いだ。頭の隣に大量の血が凝った。体の周りは法輪功の宣伝物が散らしている。彼女の体すでに冷え、手足も硬くなった…
数日後、交番の王さんという警察は私に事件の経過を知らせた。警察の取調べによると、2011年12月31日の21時ごろ、小堡郷張家村三組の黄蓮花は母に電話をかけ、すぐ烏斯河駅まできて法輪功を広めると伝えた。母は時間を節約するために、近道をとり、長河坝峡谷の山登り道に、暗いから油断して崖下に落ちてなくなった。