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李洪志の画策指揮による「4•25」事件

2010-04-26 ソース:Kaiwind 作者:秦瓊山

前書き:1999年4月25日、北京、天津、河北、山東、遼寧、内モンゴルなどから来た1万余人の法輪功学習者は突然中国共産党中央と国務院の執務場所である中南海の周囲に集中して、全世界を驚かせた。事件が発生後、李洪志は何度も事情を少しも知らないと公言し、法輪功組織もこの事件が当該組織による行いを極力否定した。この事件の真相を明らかにするため、筆者は何度も「4•25」中南海包囲攻撃事件の組織に参与した李昌、王治文、紀烈武、姚潔などの主要メンバーにインタビューして、この事の経緯をはっきりさせてきた。

一.法輪功人員による天津師範大学包囲攻撃事件は「4•25」事件の導火線である。 

1999年4月11日、天津師範大学の雑誌『青少年科学技術博覧』(1999年4月8日、『青少年科学技術博覧』雑誌社が天津教育学院と共に天津師範大学に合併された)第4号は写真入「特別記事」の形で、中国科学院の何祚庥院士の『青少年の気功練習に賛成しない』と題する論評を掲載した。論評は「中国科学院理論物理研究所の一学生が法輪功を練習したため食事をせず、水を飲まず、寝ず、話もしなくなり、結局彼を精神病院へ送り、やむを得ず応急手当をしてもらった。この学生が全快して退院後、また法輪功を練習したため、病状の再発を招いた。再度精神病院に送られた際に、彼は「李洪志師父は相変わらず私に関心を持っている」(李洪志は法輪功のリーダ)と言い続けた。偽気功に反対して以来、私は相次いで各種の報告を9件受けたが、彼らの親友が気功を学習したためビルから飛び降り自殺したと言われ、結局死者が8人、負傷者が一人出た。これら偽気功の宣伝者、神功異能の吹聴者は青少年を毒している」と語った。論評が発表された後、一部の法輪功学習者は法輪功と李洪志を「誹謗」したとして、続々と雑誌社を訪問し、この論評を撤回し、謝罪するよう求めた。

4月15日、「法輪大法研究会」で学習班の開設と法輪功の理論?修練方法の解釈を担当した王治文(当時、中国鉄道物資総公司技師)は「法輪功天津総站」の責任者徐金芳、範其峻に支持の立場を表明し、代表を天津師範大学へ交渉に行かせるよう指示した。天津補導総站は三人を派遣し、『青少年科学技術博覧』の周紹禄編集長と範君石常務副編集長と交渉した。最初に双方は簡単に解決できると考えて、交渉が順調だった。しかし、人から人へと噂が伝わったため、多くの法輪功学習者が雑誌社を訪れ、圧力を加えようとした。

その翌日、天津市「法輪功補導総站」の責任者は王治文らから指示を受けてから、『青少年科学技術博覧』編集部に三つの条件を出した。一つは公に陳謝し、影響を取り除くこと、一つは直ちに市場に出回った刊行物を回収廃棄すること、一つは新聞にいかなる個人や新聞、雑誌が関連内容を引用転載してはいけないといった内容の声明を掲載することであった。条件が苛酷であり、言葉遣いが激烈であったため、雑誌社の編集者はこれら要求を満たすことができないとして承諾しなかった。交渉は膠着状態に陥った。

「法輪大法研究会」と「法輪功天津補導総站」の指揮の下で、4月19日から、ますます多くの法輪功学習者が天津師範大学の甘粛路校区に集中し、座り込みを行いはじめ、雑誌社に圧力を加えようとした。4月21日、王治文はまた法輪功天津総站に、「阻止しないで、行きたい人に行かせろ」と示唆を与えた。天津市及び周辺省市の法輪功学習者の情緒が扇動された後、4月22日、座り込みと抗議に参加した法輪功学習者の人数は3000人を超え、大学の正常な授業と生活の秩序が完全にかき乱されてしまった。法輪功天津総站は再度代表を北京へ報告に行かせたところ、王治文は事情に「満足」の意を表し、「あなたたちは昼間に行って、夜になると撤退するよう」と指示した。「法輪大法研究会」の配置と推進の下で、天津師範大学甘粛路校区へ陳情に来た法輪功学習者はますます多くなり、局面は次第に拡大し、中南海事件を包囲攻撃する「4•25事件」の導火線となった。

二、李洪志が帰国して、自ら「4•25事件」を画策指揮した。 

当時、米国に滞在した李洪志はこの消息に接し、チャンスが来たと見て、こっそり帰国した。1999年4月22日、「法輪大法研究会」で香港事務を担当した紀烈武(当時、(香港)中国非鉄金属工業貿易グループ、東方銅業有限会社取締役?社長を務める)は李洪志の翻訳張爾平の米国からの電話を受け、李洪志がその晩米国から北京に到着するが、空港まで出迎えに来てくださいと言われた。紀烈武は空港へ出迎えに行ったが、李洪志のフライト到着時間を間違えたため、会えなかった。その後、電話で李洪志の財務担当の劉桂栄(定年退職労働者)と連絡してみたら、李洪志がすでに北京に到着し、崇文区の法華寺団地にある16号ビルの自宅に宿泊していると分かった(李洪志が4月22日17時10分発ノースウエスト航空NW087便でニューヨークから北京に到着)。李洪志から承知を得てから、紀烈武はその夜8時頃、李洪志の住所を訪れ、彼に会った。紀烈武は天津師範大学で発生した法輪功学習者の集合事件を李洪志に報告した。当時、李洪志は検討しようとして、態度を明確に表明しなかった。彼らはまた4月25日か26日の航空券を入手して、一緒に香港に戻ることに触れた。それから紀烈武は李洪志の住所を離れた。

4月23日早朝、李洪志は李昌(公安部の退職幹部)、王治文等が自宅に来て活動を報告するよう指示した。紀烈武と王治文は午前8時頃、李洪志の自宅を訪れたが、その時、劉桂栄はすでに来ており、李昌はまだ着いていない。王治文は国内の法輪功状況と存在する問題、特に天津師範大学で発生した法輪功学習者の集合事件を李洪志に報告した。当時、法輪功天津総站から、天津の公安部門が間もなく法輪功学習者の集合デモを阻止するが、研究会はどう対応すればいいかと聞いたが、王治文は李洪志に伺いを立てた後、「恐れることは無いよ。まさに試練じゃないか」と言った。王治文は天津市の公安部門が間もなく出動し、集合者に無条件に撤退するよう勧告し、さもなければ逮捕することを李洪志等に報告したが、李洪志は「もし天津が学習者を逮捕するならば、上級機関(国家を指す)に反映する」と明確に指示した。

23日、天津師範大学甘粛路校区に集まった法輪功学習者は6300余人に激増し、これら学習者はほとんどはるばる安徽、山東、遼寧、吉林、黒龍江などの地方から来た人であった。人数が多く、場面が混乱したため、天津師範大学の正常な生活と授業の秩序に大きな影響を及ぼした。

会議は当日の10時頃まで続いた。王治文が出勤するため、紀烈武は車で王治文を送りに行った。途中で紀烈武は王輝忠(李洪志の運転手)から電話があり、李洪志の宿泊所に戻ってくださいと言われた。11時ごろ、紀烈武は再度李洪志の宿泊所に戻ってきた。その時、李洪志、李昌、劉桂栄と王輝忠らがその場に居合わせた。李昌は李洪志に会って、天津師範大学で発生した事件に言及し、「天津の方が学習者を逮捕すると、北京で大勢の学習者を組織し、上級機関に反映する必要がある」と言った。これに対し、李洪志は「李さん、今度のチャンスを逃さないでね。北京テレビ局事件の時、参加者がさらに多ければ、問題は早く解決するだろう」と言った(1998年5月末、北京テレビ局は『北京特急』コーナーで『偽気功は講義免許によって一掃されるか』という番組を放送し、一人の博士が法輪功を学習し、走火入魔になり、半身不随になった事例を報道し、政府の関係部門が「気功師」の資格審査を行い、「講義免許」制度を実施するよう呼びかけたため、数日にわたって1000余人の法輪功学習者に包囲攻撃された。しかし李洪志は包囲攻撃事件に対し、うまく組織できないため、事件を拡大できなかったとして、ひいては法輪功北京総站副站長の李雪軍を免職した。今度は李洪志が天津師範大学雑誌社事件を利用して、さらに大きな騒ぎを巻き起こそうと堅く決心し、「法輪大法」の合法化を図ろうとした)。

李昌は公安部を訪れ、公安部の指導者に状況を反映するよう提案した。その時紀烈武は「公安部の指導機関や国務院に行って、総理に反映すべきだ」と言った。李洪志はこれを認可し、「研究会が顔を出さずに、学習者が自発的に行くように動員する。政治に参与してはいけない」と言った。食後、李昌が李洪志の宿泊所を離れようとした時、李洪志は「急いでやってくれ」と李昌に指示した。

李洪志から口頭指示を受け、4月23日午後1時半頃、李昌は首都体育館南路団地1番地30門15号にある葉浩(「法輪大法研究会」の中堅、公安部の退職幹部、当時すでにカナダに定住するようになった)の家で、「法輪大法研究会」の王治文、姚潔(北京華電不動産会社員)、于長新及び北京総站の湯学華、劉樹人、郝家鳳、劉知春らを召集して会議を開き、紀烈武も参加した。李昌は天津で発生した事件を通達し、李洪志の決定を伝達して、各地の学習者による総理への情況反映を提案すると同時に、すべての法輪功学習者を、4月25日の明け方、中南海で集合させるよう参会者に要求した。彼は特に「天津の問題を解決するだけでなく、弘法と護法にもなる」と強調した。この計画を着実に遂行するために、彼らはまた24日の 「大法学習例会」を利用して、法輪功北京総站の各補導站責任者の割り振りを決めた。

4月23日午後6時頃、会議がまだ終わっていないうちに、紀烈武は慌ただしく車で李洪志の宿泊所へ向かって、午後の李昌の招集による会議の状況や計画実施状況及び具体的な措置を彼に報告し、李洪志から肯定的な答えを得た。

23日夜、正常な社会秩序を維持するために、天津市公安局は数日にわたって天津師範大学教育学院を包囲攻撃した法輪功学習者が離れるように勧めた。天津からさまざまなうわさが絶えず伝わってきて、公安局が45人を捕まえたと言う人がいれば、13人が捕まえられたと言う人、一人も逮捕されていないと言う人もいた。これら消息はいずれも確かめることができない。夜10時ごろ、「法輪大法研究会」の中堅は再度葉浩の家に集まり、当日の二回目の会議を開いた。会議で、李昌、王治文は「天津の警官は学習者を逮捕しており、死者も失踪者も出た」という話を伝えた。李昌、王治文、紀烈武、姚潔らは検討した上、李小妹、孟慶国を天津へ情況調査に行かせることにした。会議はまた三つの中南海への陳情要求、つまり一つは天津公安機関が直ちに学習者を釈放し、一つは法輪功にゆったりとした環境を提供し、一つは法輪功の関連書籍の出版を認めてもらうことを決めた。

4月24日朝7時頃、紀烈武は李洪志の宿泊所を訪れ、「天津で事故が起きたかもしれないが、早めに香港に行かれる必要があるだろうと李洪志に勧めた。李洪志は少し考えた後、荷物を片付け、香港に行くことにした。紀烈武が免許を持っていないため、李洪志は自ら車を運転して、紀烈武、劉桂栄を連れていっしょに空港に向かい、10時20分発香港行きCA111便の航空券を手にしたが、機械的な故障のため飛行機が時間通りに離陸することができないため、李洪志はまたCA109便に乗り換え、13時30分に香港に向かって、香港康怡花園にある紀烈武の家に泊まった。途中で、彼は、上級機関に情況反映をする時、「法輪大法研究会」のメンバーは顔を出さずに、舞台裏で組織しなければならないことを李昌、王治文、湯学華らに知らせなさいと紀烈武に指示した。また、王治文に地方の法輪功補導站に通知を出してもらい、「参加者が多ければ多いほど良い」、「今回は最後のチャンスだ」と強調した。

三、「法輪大法研究会」の動員配置のもとで、法輪功組織は中南海での集合を密かに画策し始めた。 

4月24日午前8時30分、北京東城区蔵経館胡同7号で、法輪功北京総站と区県補導站の中堅が参加する「大法学習例会」があった。「大法学習例会」は実は「法輪大法研究会」が李洪志の命令を伝達するものであり、法輪功学習者を指揮する一つの重要な組織形式である。今度の「大法学習例会」は彼らが「4•25」不法集会を配置するための三回目会議となった。紀烈武は会場に駆けつけて、李洪志が出発する前に言い付けたことを李昌らの中堅に伝えた。

24日午後、李昌、湯学華、姚潔、郝家鳳、劉樹人らは再度葉浩の家で、4月25日の中南海への「陳情」をめぐる会議を開いた。李昌、王治文は会議で李洪志の要求に従い、「4•25」行動を具体的に配置し、中南海集合行動の具体的な時間を4月25日の明け方に決めた。年寄りの李昌は長年公安部に勤務した職歴があり、大規模な活動を組織する経験を持っているため、会議は主に彼を中心として開かれた。会議では、中南海の集合現場で、各支站長が特に一部の人を按排し、安全や交通、秩序、衛生及び現場の連絡に責任を負わせ、何らかの状況が現れる場合にタイムリーに処理することを決め、そして集合の策略として参加する学習者がスローガンを叫ばないことやポスターを持たないこと、宣伝ビラをまき散らさないこと、過激な言葉を使用しないこと、対外的に「法輪大法研究会」と補導站の名前を使わないことを定めた。会議はさらに法輪功北京総站の劉志春副駅長が責任を持って、北京の各区県に通知し、王治文が各地方に通知することを決定した。

会議では、李洪志が今回の集合のために決めた、「今度は護法のための最後の機会」という原則を伝えた。同時に、各区県の支站が、大法修練のためにゆったりとした環境を勝ち取ることは「弘法」と「護法」であり、皆が積極的に「弘法」、「護法」の活動に参加すべきである。集合活動への参加は個人の意志と行為であり、自分が責任を負うことを学習者に伝えるよう要求した。

4月24日午後、李昌、紀烈武らは「法輪大法研究会」の主な中堅と北京法輪功総站の責任者は葉浩の家で「4•25」不法集合活動をめぐる四回目の会議を主催した。李昌はまた、「師父はこのような機会が最後であり、二度とありえない」という李洪志の意図を伝えた。今度の会議は「4•25」行動をめぐる現場の指揮の組織分業をさらに明確にし、李昌、紀烈武は全面的に指揮し、王治文は地方との連絡、劉志春は北京の各区県との連絡、姚潔は現場との連絡をそれぞれ担当し、劉樹人はインターネットを通じ、対外的宣伝原稿の発表を担当することを決めた。会議はまた、西城区月壇街道地蔵庵にある姚潔の家に「指揮部」を、民族宮の近くにある柯明の家に現場連絡所を設立し、陳東月、李月秋らが中南海の現場で状況を調べ、直ちに「指揮部」に報告することを決めた。最後に、李昌は総站クラス以上の責任者が皆中南海の集合現場に行かないことを繰り返し強調した。

当日、会議の分業によって、王治文は「法輪大法研究会」の名義で、河北、山東、遼寧、天津、内モンゴルなどの法輪功組織の責任者に電話を770余通掛けて、「天津で事故が起きたため、中央政府に状況説明をする。学習者が参加できるなら参加しよう。師父が今度は圓満を達成する最後の機会だと言われている」と通知し、彼らに、4月25日の朝、法輪功学習者を北京市中南海府右街へ「護法」に行かせるよう要求した。

李洪志の意図が「法輪大法研究会」を通じ、急速に法輪功の各総站長に伝えられ、各総站長はさらに等級順序に従って支站、補導站及び学習者に伝えた。これで、「4•25」行動の準備作業が全部用意できた。

四、李洪志は「法輪大法研究会」への指図を通じ、香港から「4•25」事件を指揮した。 

4月24日夜9時40分、中南海北門に約40人の第1陣法輪功学習者が現れた。

朝7時、中南海西門の府右街辺りで、座り込みの局面が現れた。25日午前まで、人数は1万人を超えた。午後になると、不法集合者の人数がますます増えた。午後6時頃、人群れはすでに北海公園前門の団城まで並べられた。その時、府右街の交通は中断された。

事前の計画によって、25日早朝、李昌、王治文、紀烈武、劉志春ら20数人は相次いで月壇の姚潔の家に設立された「指揮部」に着き、携帯電話で中南海の集合現場と頻繁に連絡し、絶え間なく命令を下し、指揮に当たっていた。なかでも、自ら中南海西門の現場を訪れ、果てしのない人群れを見て、非常に良いと李昌は思った。

9時45分頃、現場から4人の法輪功学習者が中南海に入り、国家投書陳情処理局の人と「対話」したが、なぜ今度の活動を引き起こすかという質問にはっきり答えられなかった。もう4人が交代で入っても、同様に目的をはっきり言えなかったため、まもなく出てきた。現場の指揮である周徳承は「法輪大法研究会」と北京総站と連絡して、はっきり答えられる人を交渉に行かせるよう要請した。李昌、王治文、紀烈武らが検討し、しかも香港にいる李洪志から同意を得てから、もともと顔を見せたくない李昌、王治文ら5人が「対話」代表として中南海に入ることになった。李洪志に報告した後、李昌は急いで他人に自宅まで送ってもらい、灰色の背広に黄色の警察専用ズボンを着替えし、ズボンを皮製カバンを脇に抱えて、中南海へ「交渉」に行こうとした。

午後1時頃、「法輪大法研究会」の李昌、王治文、郝家鳳、周徳承、劉樹人の5人は代表として、関係部門の責任者と「対話」し始めた。彼らは最初に北京市委員会の指導者李志堅氏等と会い、法輪功の訴えを簡単に紹介し、市委員会の指導者に上級機関に反映すると承諾された後、出てきた。また国務院の副秘書長と対話し、最後に国家投書陳情処理局の3人の局長と対話した。「法輪大法研究会」の5名代表は、関連部門が法輪功の問題における国の「支持?宣伝?反対はしない」という政策を堅持していないため、中央に反映し;天津市に天津師範大学をめぐる陳情問題を解決し;国が『転法輪』等の書籍の出版を許し;法輪功に合法的かつゆったりした環境を提供してもらいたいと求めた。国家投書陳情処理局の指導者はこれら要求を承諾せず、法輪功に無条件に中南海への包囲を解除するよう要求した。

対話はずっと夜9時まで続いたが、結論が出なかった。国家投書陳情処理局の指導者に翌日引き続き対話しようと言われた。李昌は出てきた後、すでに中央に情況を反映する目的を達成し、同時に、日暮れになると、これら多くの法輪功学習者に事故が発生した場合、責任を負わなければなんないと考えたため、集合者の解散を提案した。

李洪志は香港の紀烈武の家で、電話で「法輪大法研究会」を遠隔操作した。25日明け方、彼は「法輪大法研究会」の主要な中堅に電話し、中南海集合事件の情況を尋ねた。彼は事件の最初からずっと北京の「指揮部」と「ホットライン」で連絡し続け、、絶えず指示を下したり、現場の活動を遠隔操作で指揮したりした。北京の「指揮部」も途切れなく李洪志に電話で報告したり、指示を仰いたりした。25日当日、彼らは20数回も頻繁に電話で連絡したりした。通話の中で、李洪志は何度も「地方の人を多く呼んで、さらに多くの人に参加させるよう」指示した。紀烈武は現場の状況と関連問題を直ちに李洪志に報告した。現場に来た人が1万人を超えた時、紀烈武は電話で李洪志に報告した。李洪志は「よし。地方の学習者は多いか」と聞いた。2組の代表が中南海に入り、「対話」を開始した後、紀烈武は直ちに李洪志に報告し、李洪志は「良し」と言った。中央弁公庁と国務院弁公庁の投書陳情処理局に「法輪大法研究会」と法輪功北京総站の代表が交渉に来るよう要求された時、紀烈武は直ちに李洪志に指示を仰いだ。李洪志は「あなた達を呼んだので、行くべきだ」と指示した。その時、はるばる香港にいた李洪志は中央への圧力結果について、しきりに指揮部の紀烈武に聞いた。李洪志の命令を受ける前に、中南海の周囲に不法に集まった学習者は一人も離れなかった。

北京市政府に集合者が解散するよう要求された時、紀烈武は直ちに李洪志に報告し、中南海近くに集まった人が撤退するかどうかについて、指示を仰いだ。李洪志に「代表が出たのか」と聞かれた時、紀烈武は「まだ」と答えた。これに対し、李洪志は「絶対撤退できない」と明確に指示した。

21時頃、李昌、王治文らが出た後、紀烈武は再度李洪志に報告した。李洪志に「交渉結果はどうだった」と聞かれた時、紀烈武は「明日引き続交渉する」と答えた。中央弁公庁、国務院弁公庁の投書陳情処理局の責任者に法輪功の学習者が直ちに不法集合を停止するよう要求されたため、紀烈武は直ちに、撤退するかどうかについて、李洪志に指示を仰いだところ、李洪志は「李さん(李昌)に言われたら、撤退しよう」と答えた。紀烈武は李洪志の指示を受けた後、「みんなに撤退させろ」と指揮部に知らせた。その後、指揮部は法輪功の学習者に撤退させるようにし、「北京の弟子は見上げた意気で、地方の学習者を自宅に呼んで宿泊を按排しよう」と配置した。

李洪志がもっぱら画策指揮し、不法に集合し、中南海を包囲攻撃した「4•25」事件はこのように矛を収めた。

4月26日朝6時頃、李洪志は李昌らが中央の指導者と会っていないことが分かり、紀烈武に電話し、「昨日中央の指導者と会っていないのに、なぜ李昌がみんなに撤退させたのか」と責めると同時に、引き続き地方の法輪功学習者を中南海に集合させるよう要求した。

8時頃、李昌、王治文、紀烈武らは相次いで姚潔の家を訪れた。紀烈武は「昨日撤退すべきではない。師父は中央の指導者と会ったと思っていた。状況ははっきり知らなかった。師父は自分の名前で地方の学習者に通知し、引き続き北京に来てもらい、みんなで再度中南海に行き、参加者が多ければ多いほどよい」と言った。紀烈武はさらに、「修行者は何の恐れもなく、死も恐れない。必要な時、流血も当たり前のことだ。流血こそよいことだ」と言った。しかし学習者はすでに離れてしまい、北京市公安部門も措置を取って、局面をコントロールしたため、「法輪大法研究会」は更なる大規模な法輪功学習者を中南海に集合させる力がなくなり、断念するしかなかった。

紀烈武は姚潔の家で李昌、王治文らとどう投書陳情処理局に反映すればいいかについて相談し、午前10時頃、会議が終わった後、飛行機で香港に向かった。彼は自ら李洪志に中南海を包囲攻撃した全過程を報告した後、、李洪志はキャセイパシフィック航空会社のCX103便に搭乗して、オーストラのリアブリスベンに飛んでいった。5月初め頃、紀烈武はまた李洪志に随行し、シドニーで開催された法会に参加した。

その翌日の午後、李昌、王治文ら「法輪大法研究会」の代表が十数人を連れて、再度国務院投書陳情弁公室を訪れ、煉功による差別問題を反映し、陳情の方式で交渉しようとした。国家投書陳情弁公室の従業員は彼らを接待したが、公の事として規定に従って、半日も交渉を続けたが、結論が出なかった。

4月末、李洪志は米国『ウォールストリートジャーナル』上海支局記者の電話インタビューを受けた際、舞台裏で法輪功学習者の中南海集合を指揮したことを否認し、今回の行動は全く知らなかったと公言した。5月2日、李洪志はオーストラリアのシドニーで、オーストラリア国家ラジオテレビ局、『シドニー朝刊』、AFP通信などの記者インタビューを受けた際、「北京で発生した事は事前に少しも知らなかった。その時、私は米国からオーストラリアに向かう途中だった。ブリスベンについてから、この事を全部知ったのだ」と事件との関係を精いっぱい回避した。

わざわざ嘘をついた李洪志の行為に対し、李昌ら忠実な追随者は憤った。姚潔はインタビューを受けた時、「これは圓満への最後の機会だと師父は繰り返し言った。誰でも圓満になりたいだろう。しかし、この事件はペテン、完全なペテンで、李洪志は大詐欺師だ」と指摘した。

2008年5月、李昌は記者のインタビューを受けた時、「北京に来たことを認めるかどうかは一人前の男としての態度を表明するものだ……このような行為は自分にしても、歴史にしても、こんなに多い法輪功学習者にしても、責任感のないことだ。個人の人徳から見ても、このようにやるべきではない」と李洪志を叱責した。

紀烈武は「李洪志は北京入りしたことがないと言ったが、これは絶対嘘だ。「4•25」事件は間違いなく李洪志が画策したものだ。彼以外に誰でもこのようなことを決定できない。彼はこの事件で決定的な役割を果たした」と証言した。

(Kaiwind.com, 04-25-2010)

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