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二度目北京へ行き、焼身自殺を決めた

2015-01-20 ソース:Kaiwind.com

《法輪功に夢中になった》 

二度目の北京 

私は自分の捨て、焼身自殺の形で「正法」する信念を決めた後、200010月のある日、私は天安門広場で焼身自殺をして「法を守る」考えを劉雲芳に伝えた。当時、彼は同意も、不同意も言ってなかった。その後郝恵君も劉雲芳と同じ考えを持っていると相談したのを聞いた。しばらくしたら、われわれ三人はこの件(焼身自殺)を決めた。具体的にいつ行うのかは別途相談すると。  

大体10月末ごろ、劉雲芳は北京に行ったことなく、現場の事情がわからないと言った。そして、私はお金を用意し、北京への寝台列車のチケットを購入した。私たちは北京にきてから、郝恵君の娘陳果は中央音楽学院の入り口でわれわれを迎えた。彼女はすでに泊まる場所を手配してくれた。片付けてから、私と劉雲芳は天安門広場でぐるっと回った。戻ってから、私と劉雲芳は陳果に、北京にいる練習者をたくさん呼んでもらい、一緒に交流しようと思った。しかし、陳果は二人の女性練習者しか見つけてこなかった。話をかけてみたら、彼女たちは私の理を悟ってもらえずに、がっがりした。北京に来る前、劉雲芳は開封ではこの件に参加できる人選がそんなにみつけられなかった。師匠は北京でもっとも多く説法したので、そこに「大法」のエリートはたくさんいることに決まっていた。もし広場で九つの法輪を囲むことができたら最高だ(一つの法輪を囲むには9人が必要なので、九つの法輪を作るため、81人が必要だ)。  

当時の私はこれを冗談として聞きうけた。なぜかというと、そんなに多くの人を参加させられないはずだ。しかし、劉雲芳は自信満々だった。彼はやりたがったので、多くの練習者と交流したがっていた。しかし、実際そんなに人を探せないし、話したとき、本当の目的(焼身自殺)さえいえなかった。最後、彼は81人で九つの法輪を作る計画をあきらめた。現場を見学した後、彼は塗料商店を探した(焼身自殺の燃料を購入するため)  

北京で五日間を滞在した。最後の夜、劉雲芳は開封にいる練習者と電話して、開封の帰り準備をした。私たちは挨拶せずに北京にきたので、家では大騒ぎをした。家族はあちこちに聞きまわして、毎日涙を流した。そのつらさは想像できた。私は電話がしてから、翌日の朝、開封に戻るのをきめた。私は家へ帰ったとき、妻は私をだきしめながら泣いた。私は妻を慰める言葉を思いつけられなかった。妻に原因を聞かれたら、私は劉雲芳と二人北京でほかの練習者と練習の心得を交流したとうそをついた。こうしてこの騒ぎを終えた。  

あれ以来、師匠の経文は出続き、われわれは勉強し続けていた。目的は「執着」を捨てらせ、外に立ち向かわせ、すべての修練者を天安門広場で「法を守る」ようにさせられるためだった。師匠はすでに立ち向かった弟子は偉いと言われた。あの時、妻と娘も天安門広場で「法を守る」ように要求してきた。私は家族三人で北京へいって、法を守りに行くことを決めた。  

確かに200116日ぐらいに、劉雲芳は手書きの師匠の「経文」をくれた。内容は:仏として、宇宙と宇宙に生きた命のために、自分のすべてと命を惜しまずに奉仕できる。そのレベルにならないといけない。そして我々の心の中に、冤罪にきせられた「大法」と師匠の無実を証明するため、自分の肉体を犠牲しても惜しまないと思った。天安門広場で焼身自殺をする巨大な影響を作り、政府の「大法」に対する態度を動揺させることを決めた。  

 200118日後、郝恵君も劉雲芳に天安門広場で焼身自殺をすることを相談し続けていた。自分の娘陳果も参加すると言った。この話を聞いたとき、私の心の中に、急に悲しさが浮いてきた:彼女はあんなに若い年で。しかし、私は彼女を止める理由はなかった。そして、郝恵君親子に尊重した。  

北京で焼身自殺の予定はなかなか決められなかった。ある日、私は塗料商店に劉雲芳と話したとき、急に十数年前、中央テレビ放送局が放送したアニメを思いついた。内容は「除夕」(意味は大晦日)の神話を紹介した:ある「夕」という悪魔は人間社会で大騒ぎをし、人間に大きい災いを与えた。「夕」は子供を食ったり、嵐、洪水、干ばつを招いたりをした。人間は天に、神様を派遣して「夕」と戦ってもらいたいと祈った。その後、「年」という神童は天から降りて、悪魔の「夕」と激闘し、「夕」を倒した。そして人間社会は平和な日々に戻った。人間は勝利の日を記念するため、旧暦三十日の日を「除夕」と決め、翌日の正月の一日を「年」の勝利を祝うためと決めた。劉雲芳はその話を聞いて盛り上がった。かれはそんなに興奮になったのを見たことはなかった。こうやって、我々の焼身自殺の予定は「除夕」(大晦日)にきまった  

1 10 だと思うが、劉雲芳は郝恵君が数日前彼に渡したあの件のための3000元から1000元を私に渡した。寝台列車の切符4枚を買えようと言った。もう一人は誰なのかと聞いたとき、劉雲芳は劉葆栄も参加すると答えた。私は事前知らなかった。  

当時、警察は私を探したため、私は駅に誰かに見られることを避けるようにしていた。このとき、私は知り合いになったばかりの劉春玲を思い出した。他人から気が利くとよくいわれたので、私は劉春玲の家を訪れた。111日のことだった。彼女と娘劉思影は家にいた。私は彼女に、現在警察に捜されたため、116日北京への寝台列車切符四枚を私のかわりに買ってほしいと言った。彼女は同意した。しかし、彼女から誰が行くのか、北京でなにをするのかと聞かれたとき、私は事実を教えなかった。ただこれは他人からの頼みだと答えた。このとき、娘劉思影も母に北京へ行きたいとせがんだ(母子は天安門広場へ何回も行ってきた。帰ったばかりだった)。彼女から何回もきかれても、私は本当のことを教えなかった。そのとき、彼女は言った、他人から、現在の悟りが高い練習者がおり、天安門広場で焼身自殺を企画していると聞いた。私はびっくりした。この件はなぜ彼女の耳にはいったのか。誰から聞いたのかときいても、彼女はどうしても教えなかった。そして、彼女は自分も北京でこの件に参加すると考えているといった。彼女の真剣さと盛り上がった様子を見た私は、感動をうけて涙をでそうになった。結局、彼女に事実を話した。彼女の娘はきいてから、どうしても一緒に行こうと騒いだ。私はいけないと思った。劉思影はまだまだ幼い。母親に死なれると、孤児になってしまう。一緒にいくと、12歳の劉思影にとって残酷すぎるし、彼女自身も受け取れない。彼女たちが参加すると、「大法」に巨大的なマイナスな影響を与えたと思った。私はどうしても同意しなかった。利害関係を話し、劉春玲を説得した。劉春玲は娘に、年明けてから必ず連れて行くとごまかした。しかし、逆に娘は騒ぎ出した。しかし、劉春玲は娘に説得することを任せてくれと私にいった。今回、彼女は参加しないと決めた。  

三日間後、劉春玲の家で、買ってくれた4枚切符を取りにきたとき、彼女は北京へ行くため彼女母子二人の切符を見せた。当時の私は非常に怒った。もう一度利害関係を話した。ぜひ切符をキャンセルしてくれと要求した。最後、彼女は仕方なくて、切符をキャンセルと北京にいかないことを同意した。  

翌日の夜、つまり116日、私は二番目の妹の家で母親と別れの挨拶をした。当時、二番目の妹、三番目の妹と娘の彼氏と会った。彼たちにバレないため、南郊外にある練習者の家でしばらく泊まるとうそをついた。顔に、特に悲しい表情をみせなかった。ただ私の心はつらかった。家の門を出かけると、心の中に、つらさがやってきた。家族よ、もう二度とわたしと会うことができない。涙は目から出てきた。しかし、自分はすぐに我慢した。そのとき、師匠の話を思い出した。師匠は言った:円満に「修練」できた人なら、将来師匠はあなたと縁がある人を天国へ連れてあげる。私は思った:お母さん、家族よ、待ってください。師匠のいいなりになることは間違わない。あの時はもうすぐやってくる。私はあなたたちを捨てることをしたとは思わないでください。ただ現在ちゃんと説明できなかった。将来、あなたたちは私がいまやっていることはいかにえらいことだとわかるはずだ。「法」を認識するレベルが高くない限り、口だけならできないことだ。「大法」を守るため、人間社会の感情を捨てなければならない。私は南京巷街南口でタクシーを拾って、駅へ直接行った。  

駅に到着した後、しばらくしたら、薛紅軍はタクシーに乗って、郝恵君を駅まで送ってきた。私は薛紅軍にホーム切符を購入してあげた。彼は郝恵君の荷物を持って、彼女を汽車に送った。私は汽車の入り口にいたとき、急に劉思影は乗車した様子をみた。私の頭は空白になった。乗車した後、私の気分は非常に悪かった。誰に話をかけられても、いい顔をみせなかった。ずっと黙っていた。北京に来たときさえ私は思った:これはまさか天意なのか。  

私は彼たちを連れて、郝恵君が言った387番バスで中央音楽学院で降りた。陳果はそこで我々を迎えた。そして彼女はまず我々を連れて学院の食堂で朝食を食べてから、バスに乗って、北京西に遠くにある練習者の家に案内した。私と劉雲芳は外で待った。しばらくしたら、あるわかい人は我々を門頭溝城子駅に連れられた。駅でバスを乗り、予約した大きな庭にある部屋に案内してくれた。部屋には二つの応接間と二つの寝室を持っていた。女性は奥にある寝室と応接間を利用し、私と劉雲芳は外の寝室を利用することになった。片付けた後、彼女たちは近くにあるスーパーでたくさんの食品と野菜を買いに言った。全員は8000元ぐらい持っていた。  

我々を連れてきた若者は、ほかの「大法」弟子と同じ、ここでしばらく住むと、天安門広場でちょっとアピールしてからもう帰ると思った。劉雲芳は若者に、北京での練習者と交流するため、練習者をもっと探してほしいと依頼した。その夜、若者は私、劉雲芳、陳果につれて、車に乗ってあるレストランにきた。個室の中に、すでに5人北京の練習者が座っていた。我々を含めて全部9人がいた。私と劉雲芳は北京にきた本当の目的を彼たちに教えずに、彼たちの考えをまず聞こうと思った。結局、彼らの「悟り」は説法の表現にまで泊まっていなかった。その中に、劉秀芹という人の悟りはよかった。2時間もせずに、私は劉雲芳にやめる合図をみせた。終わってから、劉秀芹の電話番号を取った。ほかの人の電話番号を聞かなかった。劉秀芹は我々三人のためタクシーを拾ってくれた  

(つづく)
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