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国境の鎮にたどり着く

2015-09-18 ソース:news.cn

 

 

ジグザグに走る山道に沿って下りて行くと、ジャム鎮に到着する

峰を越え、急流を渡り、5300キロに及ぶ18日の苦しい旅を経て、10月29日の午後後5時、ついに中国?ネパール国境に迫った。この旅の最後のポイントを目の前にした興奮に長旅の艱難も忘れ、荷物を下ろすのももどかしく、ニャラム(聶拉木)県の街に向かった。

ニャラム県

チベット自治区の西南部に位置し、シガツェ(日喀則)が管轄する国境県であるニャラム県は、この旅で通過する高海抜地帯の最後の町である。主にチベット族のほか、漢族、回族、トゥチャ(土家)族、シェルパ(夏爾巴)人、ネパール人、そしてチベット人とネパール人の混血児が暮らすこの町は、ネパールに隣接し、ネパールの首都カトマンズからわずか140キロの距離である。

 

 

ニャラム県の日用品を売る店

十数台のジープが停車すると、街のほぼ全ての通りが埋まった。ここは四方を山に囲まれているため、午後3時過ぎには陽が当たらなくなる。道沿いのほとんどの店がすでに閉まっており、営業中のレストランも通行者もまばらである。「どこからいらしたのですか? お食事はどうぞうちの店で!」

道路脇の「老四川」という店から出て来た中年男性が、熱心に呼びかけてきた。「ジャム(樟木)まであとどのくらいでしょうか」と尋ねると、「それほど遠くありません。30キロほどです」漢族の服を着た彼は強い四川訛りで教えてくれた。

「老四川」の経営者である黄剛さんは四川省大邑県出身だという。若い頃生活が苦しく、故郷を離れてあちこちで出稼ぎをして、最終的にニャラムに落ち着いた。「ここでの暮らしも20年になります」彼は二本の指を伸ばし、感慨深げに語った。黄剛夫婦の四川料理店は繁盛していて、特に観光シーズンには多くの観光客が足を運ぶ。一緒に暮らしている娘は通りを挟んだ向かいで小さな衣料品店を営み、都市から仕入れた垢抜けた衣料品とネパールからの特産品などを販売している。ニャラムは気温が低すぎて野菜栽培はできないが、30キロ先のジャムは亜熱帯気候に属し、湿った空気が様々な植物や野菜栽培に適している。いつも野菜を買いに行くため、ジャムの事情にも詳しい黄剛夫婦は言う。

 

 

ジャム鎮に到着

「もう長い間帰っていないので、とても故郷が恋しいです。きっと大きく変わっているでしょう。ネパールに通じるジャムのゲート(関門)が次第に開放されるようになって、この街もますます賑わうようになりました。毎年5月から9月までの観光シーズンには、ニャラム経由でジャムゲートを出て山に登る外国人がたくさんいるので、うちの店もどんどん活気づいてきて、暮らし向きもずいぶんよくなりました」

国境にある町ジャム

ニャラム県からジャムゲートまでの短い30キロの間に、標高は3800メートルから2000メートル以下へと急激に下がる。中国?ネパール国境の54号境界までやってくると、標高はさらに1433メートルまで下がる。この数字を見るだけでも、ジャムゲートに通じる山道の落差がいかに激しく、険しいかがわかる。

 

 

雪山の中を進む

谷間に沿って下ってゆく。ドライバーはブレーキをかけながら全神経を集中させて慎重に運転する。たびたび、強い摩擦でブレーキの摩擦材が焦げたような匂いが車の下から漂ってくる。ジャムに近づくほどトラックの交通量も多くなり、渋滞してきた。標高が下がるにつれて、気温も急激に上がり、みるみる全身汗びっしょりになった。一時間ほどでジャム鎮に到着した。

ジャム鎮は「ゲート」の街として知られている。ここは一貫してチベットからネパールに通じる重要なゲートの一つであった。史料によれば、1792年からこのあたりの通商の町であったという。ネパールから輸入される食糧や役牛、軽油及び日用品などのほとんどが、ジャムゲート経由でシガツェ、ラサなどに運ばれる。食塩、羊、毛皮、手工芸品、プル(チベット産毛織物の一種)などの輸出品も、ジャムゲートを通じて南アジア各地に送り出される。1965年に、中国?ネパール道路が開通してのち、経済面における両国の交流は日増しに頻繁になり、行商人と貨物の往来はますます増え、観光客や登山客も続々とやって来るようになった。

ジグザグに走る山道の上に位置するジャム鎮に、水平の土地はほとんどない。多くの建物は山坂に寄りかかるようにして築かれた2、3階建ての建物で、高低に折り重なるように建っている。ホテルの部屋の窓を開けると、目の前に高山と密林が広がっている。窓の下には深い谷が横たわっている。谷の向こうはネパールである。

 

 

ジャムでの夜、観光客にできるのはバーでひまをつぶすことくらい

軽便な服装に着替え、街に出る。信号もなければ交通整理をする警官がいるわけでもない。歩行者と車がごちゃごちゃになった狭い通りは、都市とは違う光景をなしている。ネパールからやってきた色とりどりのトラックや旅行者のジープが、クラクションを鳴らしながら町を行き交う。チベット族と漢族のほか、インド人やネパール人など肌の色の異なる観光客や商人が行き来して、たいそうな賑わいである。道端の民家、商店、バーがひしめくように並んでいる。

一番の繁華街である友誼街に並ぶ百軒あまりの店のうち、20軒ほどはネパール人の営む店である。店先には靴やメリヤス製品、衣類、そしてネパール製品などの様々な商品が、山のように積まれている。ネパール商人?スーバーシさんは中国語で説明してくれた。「主にネパールの米とビスケットを中国に運び、ラサに持っていって売っています」

故郷のネパールのバレビシという街はカトマンズまでは遠いが、中国のジャムまではわずか30キロと近いため、ジャムにやって来て商売を始めたそうだ。やり手のスーバーシさんは、長年にわたってここで店を経営しているうちに、簡単な中国語も身につけたという。「中国語が話せると商売に役に立ちますから、一生懸命勉強しています」

午後になってジャムゲートが閉じられる前には、大小の荷物を頭の上に載せ、子どもを胸に抱いた大勢のネパールの女性たちが、なだれ込むようにしてネパールに帰って行く。

 

 

  中国?ネパール友誼大橋、真ん中の赤い線は両国の境界

その夜はジャムに泊まった。灯火がきらめくように輝く山城の夜の過ごし方といえば、観光客はバーでひまをつぶすのがせいぜいである。翌朝、ホテルに隣接するレストランの朝食は、思いがけず中国料理だけでなく、コーヒーやバターなどの西洋の食材も並ぶ国際色豊かなメニューであった。

ジグザグに走る山道に沿って下り続け、いくつかのカーブを曲がり、出入境検査所にたどり着いた。そこを過ぎてさらに突き当たりまで進むと、中国のイミグレーションである。小さなイミグレーションに観光客と車があふれている。毎日4、50台の車が出入りするほか、毎年ここから出国する国内外の観光客は延べ5、6万人に上るという。そのため、ここの仕事は非常に忙しい。たくさんの人が長い列に並んで待っている。制服を着たチベット族の女性が、慎重に一人一人の出国手続きのチェックをしている。

「北京からですか?」パスポートを提示すると、微笑を向けられる。「ええ。それがなにか?」いぶかしげに尋ねる私に、彼女は答えた。「北京民族大学で4年間勉強したものですから。北京はいいですよね」たちまち親近感がわく。「卒業してからずっとここで仕事をしているのですか」「ええ。仕事を始めてからは北京に行くチャンスもなくて」と悲しげに言う彼女の顔を見て、「また北京に遊びに来られるといいですね」そう声をかけて一緒に記念写真を撮った。茶馬古道の旅の最後の、ジャムゲートでの忘れられない思い出である。

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