鸛雀楼から見る黄河
鸛雀楼内の王之渙像「白日、山に依(よ)りて尽き、黄河海に入りて流る。千里の目を窮(きわ)めんと欲して、更に上る一層の楼。」
日本でも知る人の多い、この「登鸛雀楼」(かんじゃくろうにのぼる)は、唐代の詩人?王之渙の作品。ここに詠まれた鸛雀楼は、湖北省の黄鶴楼、湖南省の岳陽樓、江西省の滕王閣と並んで中国四大歴史文化名楼に数えられるが、それが山西省運城市にあることを知る人は、実は中国でもそれほど多くないかもしれない。
鸛雀楼は運城市に属する永済市蒲州旧市街の西、北から南に流れる黄河の東岸にある。楼に登れば高い場所からはるか遠くまで見渡せる素晴らしさを味わえるだけでなく、中華五千年の輝かしい文化を感じることができる。
運城は古くは河東と言う。山西省の西南の端に位置し、この地で流れを東に変える黄河を挟んで陝西省と河南省と向き合っている。運城市には1区2市10県が属し、総面積は1万4000平方メートル、人口は520万人を数える。歴史的的には古代中華民族集落連合の首領であった堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)らが支配した中心地域だ。舜が都とした蒲坂(現在の永済市蒲州)、禹の都安邑(現在の夏県)、そして中国奴隷制社会最初の王朝?夏の都もここに建てられたことなどから、この地域は古くから「中国」と呼ばれていた。
関羽から紅娘まで
古代の河東からは聖人?賢人が代々輩出した。例えば春秋五覇の一人で日本でも「重耳」の名で知られる普の文公、宋代の『資治通鑑』の作者?司馬光、唐宋八大家に数えられる柳宗元、唐の玄宗皇帝に寵愛された楊玉環(楊貴妃)、そして道教八仙の一人呂洞賓もここで暮らしたことがあるとされる。しかし、誰にもまして有名なのが三国時代の名将?関羽だ。
関羽は国内のみならず世界の華人が暮らす場所や漢文化の影響を受けた地域で、人々に尊敬を込めて「関公」と呼ばれている。関公は広く民間で「武と財の神」「平和の神」とされ、彼を祭った関帝廟は世界各地に建てられている。そして、運城市の解州にある関帝廟は歴史が古く、規模が大きく、保存状態も良好に保たれており、世界でも最も素晴らしい「武廟之冠」(武将を祭った廟の最高のもの)と呼ばれている。関羽は運城市の中心部から15キロほど離れた解州鎮常平村で生まれた。ここには関帝廟に加え、関羽の祖先を祭った廟や祖先の墓があるため、「三関」景区(観光地)とも呼ばれる。
鸛雀楼からそれほど遠くない場所に唐代の遺跡がある。それが黄河流域で最も早くに作られた渡し場の蒲津古渡遺跡だ。ここから出土した黄河大鉄牛と浮き橋の鉄鎖に使われた鉄は、当時全国で生産された鉄の5分の4の量に相当するという。この大鉄牛はその重さと鉄の質、造形の素晴らしさから古代の傑作とされている。また、同時に発掘された鉄人はそれぞれ漢族、モンゴル族、チベット族、ウイグル族を代表しており、盛唐時代における中国辺境の領土の広さと民族の団結を反映している。
「願わくは世の愛し合う者たちみな結ばれん」と書いた、王実甫の元曲『西廂記』は無数の「愛し合う」男女を心酔させた。その『西廂記』にある「紅娘が張君瑞と崔鶯鶯の逢瀬を手引きする」愛情物語の舞台は蒲州鎮西廂村の普救寺内で、寺の境内にある鶯鶯塔は中国四大回音(音が反響する)建築の一つに数えられている。
この地では、塩の取引や金融で明清代に隆盛を極めた山西の豪商?晋商が住んだ屋敷も非常に有名だ。運城市街地の北?栄県にある李家屋敷は200年の歴史があり、李氏一族が裸一貫から身を起こし、信用を重んじて成功、財をなして広く世の中に善行を施した物語を今に伝えている。屋敷の建築規模は壮大で、構造は複雑で趣きに富んでいる。使われた瓦、石、木それぞれの彫刻はいずれも非常に精巧で美しい。
運城の名は塩湖から
運城市街地には塩湖区がある、運城すなわち「塩運之城」の名はこの美しく広々とした塩池に由来する。これは中国古代に発見された唯一の、天然結晶の塩が取れる湖で、現在では身体が沈まない塩水での遊泳や泥浴、岩塩療法などが楽しめるレジャー?スポットになっている。
文化や歴史遺跡のほか、運城では自然も大きな魅力だ。舜が自ら耕した場所とされる垣曲県歴山は現在では清涼なリゾート地であり、「東の華山」と称される五老峰は道教の聖地だ。また、平陸県三湾の天鵞湖は白鳥の越冬地として有名だ。
運城市全体では文化財、観光景勝地が1600カ所以上あり、そのうち90カ所余りが国の文化財保護指定を受けている。現在ではますます多くの内外観光客が、この観光資源は極めて豊富だがまだそれを知る人は多くない観光の穴場に注目している。
重さが75トンもある黄河大鉄牛