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河北省・蔚県(一) 北方防衛の昔を伝える

2015-12-10 ソース:peoplechina.com 作者:単濤=文 佐渡多真子

 

暖泉古鎮の西古堡は、今では蔚県の中でも最も有名な観光地の一つ

 

北京から280キロ、河北省張家口市でも最も南に位置する蔚県は、広さ3200平方キロ、古い歴史を持つ。この地を訪れた人はまず、青い空とまばゆい陽光に深い印象を持つが、からっとしているため、真夏の降り注ぐ日光の下にいても酷暑という感覚はない。

蔚県は、古代には商(殷)王湯に封じられた諸侯国の一つ代国があった場所と伝えられている。「蔚」の字は北周(557~581年)時代に正式に地名として使われるようになり、「蔚州」は長い間北京の北西の障壁として、遊牧民族の軍隊が南下するのを防ぐ役割を果たしていた。

現在の蔚県にはすでに古代の代国時代の建築は残っておらず、ただ遺跡が見られるだけだが、それより時代が下る蔚州の建築は少なからず残っている。蔚県の県城(県政府のある中心市街)に入ると、遠くからでもすぐに高くそびえ立つ城楼とれんが造りの塔が見え、古村堡(城壁で囲まれた村)が長く連なって続くのが見える。この古村堡の中心部分に当たるのが蔚州古城だ。

明代、蔚州の北には辺境防衛の要衝張家口があり、蔚州は北方の軍事的前線に位置していた。首都北京の防衛都市として、北方の遊牧民族の侵入を食い止める重要な使命を担っていたのだ。その蔚州城の北西部には曲がりくねって続く壺流河がある。蔚州城の北に形作られた河道は、蔚州城を取り囲むベルトのように流れており、蔚州城を攻略しようと思えば必ずこの奔流を越えなければならないようになっていた。昔の人は壺流河という地の利を借りて、蔚州城の防御機能を強化していたのだ。

城壁都市としての蔚州も軍事的防御機能を十分に考慮して建設されていた。元末から明初にかけての戦争や動乱で、蔚州の経済は低迷し、都市は衰退した。初めて蔚州の指揮官に任じられた周房は、蔚州が古くから「兵家必争の地」つまり、戦略的要地であり、将来はより直接的に北方の蒙古地域に対峙しなければならないことを深く理解し、積極的に蔚州に活気を取り戻す政策を打ち出す一方、蔚州城の建設を計画した。こうして出来上がった蔚州古城の構造は、中軸線に対称という伝統的な規格に沿ったものではなく、不規則な多辺形の構造を採用している。なぜこのように建設したかは今となっては謎だが、地元の人は「兎跑城」という伝説でこれを説明するのが好きだ。それはこんな話だ。城壁都市建設に頭を悩ませていた周房は、ある日雪の上を散歩していて突然現れた一匹の野ウサギに驚いた。好奇心にかられて野ウサギが走って行くのを追うと、野ウサギは周房をからかうように、彼と一定の距離を保ちながら雪の上をぐるぐると回った。いくらもしないうちに、雪の上には周房と野ウサギの足あとで大きな輪が出来上がった。これが蔚州城の城壁の形の由来なのだという。

こうしてできた蔚州城は、もともとあった城壁の上に造られており、長さ7里(約3.5キロ)余り、高さ3丈5尺(約11.5メートル)、城壁上部の凹凸型の部分(銃眼)は1100余りある。東西と南に城門があり、上部には城楼が築かれており、城門外部には甕城(城門を取り囲む半円形の小規模な城郭)が設けられている。北方に対する防御機能強化のため、蔚州城には北門がなく、気勢みなぎる靖辺楼があって高みから敵情を眺められるようになっていた。その後いつの時代からか、靖辺楼は道教の神玉帝を祭る神廟に変わり、名前も玉皇閣となった。長年の風雨に浸食され、戦乱に巻き込まれた玉皇閣は、幾たびか修築されたものの現在もまだ完全な形で保存されている。正殿内の壁に描かれている「封神図」は、まだらになっている部分も見られるが、色彩は依然としてはっきりしており、人物も生き生きとしている。

現在、蔚州古城の城壁のうち保存状態が良好なのは西部と北部で、とても短く、総延長は2キロに満たない。県城東側で遥かに眺めると、高くそびえる城楼はわずかに南側の万山楼と北側の玉皇閣のみで、古城の歴史感や荒涼感は周囲の現代建築に薄められている。

  

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