ここは大別山の主峰天堂寨の筆架山の麓、途切れることなく連なった山々に抱かれた野原です。野原を抱く山々は落ち着いた緑色の中に、紫、赤、黄色をまとい、こぞって大きな色とりどりのスカートを身に着けているようです。白壁青瓦の安徽式民家はこの色鮮やかな麓に味わい深く入り乱れて並び、秋の日差しに照らされて静かにたたずんでいます。刈り取られた稲は霜と露に濡れて黄色く焦げ、見渡すと一枚の厚い金色絨毯のように、収穫を終えた棚田に敷かれています。金色絨毯の上に星のように散りばめられて植わっているナンキンハゼの木は実に色彩豊かです。ある葉は火に似て赤く、またある葉は尊いまでの紫色。すでに黄色くなって秋風に揺れてひらひらと落ちた葉もあれば、根気強く緑色を刻み続けている葉もあります。そしてところどころの枝はまるで雪のようなに白い実を結び始めています。各色の服を着た人々があるいは各々で、あるいは群れを成し、愉快そうにナンキンハゼの逞しい木、真っすぐな木、縮こまった木、洒脱な木の間を往来しており、彼らの姿はこの美しい景色につなぎ留められています。
にぎやかな人だかりの中で、私は取材に訪れたという数人の有名な作家に会いました。現場にいて感情を表に出して創作活動をしている青年作家に会いまたし、沢山のカメラを担いで楽しげな様子を記録している撮影仲間にはもっと出くわしました。そしてマナスという新疆から来たという綺麗な女の子とも知り合いました。紅葉を見るために、彼女は遠路はるばる新疆から湖北に、羅田に、そして聖人堂にやってきました。彼女は欣喜雀躍と、待ちきれない様子でこちらの赤い所から向こうの黄色い所へ駆けていったと思いきや、今度は別の雪のように白い所を抱きしめては、喜びと驚嘆の声を上げました。彼女はその場にいた人に話を聞いて回りながら、メモ帳を取り出して素早く記録し、せわしなく携帯電話であちこち写真を撮っています。綺麗な女の子の活発な姿はこの詩にも絵にも似た仙境の中で軽やかに動き、彼女が行くところの景色はさらに美しさを増します。無数の木々が広大で壮麗な景観を作り上げています。たとえ一本のナンキンハゼであっても姿形は様々で、近くで見ればその独特の魅力を存分に味わえます。これには寒々としたクモスギや孤独な砂漠を見慣れてしまった新疆の女の子にとっては驚嘆の声を上げざるを得ないのでしょう。
マナスは驚嘆冷めやらぬうちに好奇のまなざしで私に聞いてきました。「ここにはどうしてこれ程こんなに美しいナンキンハゼがあるのか」と。そこで私はさっき聞いたばかりの伝承を彼女に紹介しました。
はるか昔、桃源郷の如き筆架山の麓に、戦乱を逃れて住み着いた一組の母と子どもがいました。二人は助け合い、木の実の採集と狩猟に頼って苦難の日々を送っていました。ある日、若者は山に狩りに出掛けましたが、半日経っても大した収穫も上げられずにいました。日も暮れてきたため、母親が心配になった若者は手ぶらで帰らざるを得なくなりました。ところが彼が引き返そうとした瞬間、林の中から突如鹿が飛び出してきたので、急いで矢を射たところ、一発で命中しました。彼は駆けよりましたが、いくら探しても鹿が見つかりません。ふと振り返ると、一人の女性が岩の上に座り込んで小さく呻き声を上げていて、足から血を流しているではありませんか。女性は大地主からの強制的な縁談を避けるためにここ天堂山に逃げてきてところ道に迷って出られず、茂みの中で足にいばらの棘が刺さったということです。もう数日も食べ物を口にしておらず、歩き疲れて座り込み、助けてくれる人を待っていたのです。若者は半径数十里には人影もなく、いるのは虎や狼といった獣のみだということを知っていました。しかも日も暮れかけていて、助けてくれる人などもういるはずもいません。そこで若者は女性を背負って家に戻り、母親に傷口を手当てしてもらいました。その後はどの美しい伝説とも同じように、この女性は成り行き通り若者の妻となりました。春が来て、妻は身から何粒か木の種を取り出し、草小屋の周りに植えたところ、見る見るうちに大樹に育っていきました。この木は春には緑の葉を生やし、秋になると赤く色が変わりました。夏には黄色の花を咲かし、冬になると白い果実をつけました。妻は夫に、木の葉を摘み、樹皮を剥がし、根っこを掘り出し、麓の鳩鷀国に行って売り、食料と布を買って帰ることができると告げました。実際に葉は染料に使われ、樹皮と根っこは高価な薬になります。さらに不思議なのはあの丸い果実で、一つの果実で二種類の油を搾りだすことができます。器用な妻は白い皮から採った油をろうそくにして暗い夜の草小屋に明かりを灯しました。また黒い烏臼油を紙に塗って茅葺き屋根の下に敷き、小屋が雨漏りしないようにしました。ろうそくと余った烏臼油は鳩鷀国の街角で売り、十分な種、農具と糸車を手に入れました。夫は畑仕事、妻は織りものをする生活を送り始め、すぐに衣食に満ち、子宝にも恵まれました。また善良な妻は大きくて状態の良い種を選び抜いて麓に送り届けたので、鳩鷀国の人々はその種を植えた後、ナンキンハゼを神の木と称したのです。
麗しき伝説に入り浸っていたマナスは目を輝かせながらも、思うところがあったようでこう聞いてきました。「美しい神の鹿が世間に幸せをもたらしたように、ナンキンハゼはどこにでも植えられて然るべきなのに、どうして他の場所ではほとんど見かけられず、逆にここにはこんなにあるのだろう?」私は長く羅田に住む人を呼んで彼女に教えさせたところ、どうやらこの美しい景色を構成する一本一本のナンキンハゼの木は経済価値が極めて高い植物であり、工業的に広く用いられ、ずっと供給が追い付かなかったのだということです。1970年代、羅田の執政者はナンキンハゼの経済価値の高さに目をつけ、民衆に対して、家の周り、田んぼの畦道、池のほとり、山の麓といったあらゆる適した場所すべてに、薬用にも工業原料を精製するのにも使われるナンキンハゼの木を植えさせました。一時期、ナンキンハゼは湖北省東部で一世を風靡し、人々に愛される「金の成る木」となりました。しかし石油化学工業の発展とともに、ナンキンハゼから採れるものよりもっと廉価で安定供給できて生産量も多い工業原料に取って代わられてしまいます。一時代を築いたナンキンハゼも次第に関心が失われていきました。特に農村で生産責任制が導入されてからは、ナンキンハゼは経済利益をもたらさない上、日差しも遮られ、しかも農作物の水と肥料を吸ってしまうという理由で、一部の地域では短絡的な人々によって次々に伐採されていきました。だが、木を植えたら大事に育てようとする意識の強い羅田では、多くのナンキンハゼは損なわれることなく残されたのです。称賛の笑みを露わにしたマナスはしきりにうなずいています。これはナンキンハゼにとっても幸運だが、羅田にとってはもっと幸運なことではないでしょうか!
高くて大きいナンキンハゼの木は、覆い尽くすような樹冠と太くて厚い葉で、夏の炎天下に汗水たらして働く人に癒しの木陰を与えてくれます。暑さが過ぎ去り秋が来れば、緑の葉は次第に紫に染まり、また紫から明るい赤に、そして赤から黄色に変わっていき、静かに散った後、春泥に溶け込んでいきます。緑色の実も枝いっぱいについていき、晩秋の時期に冬の景色を生み出す。この神秘的な変化が一年また一年と重なって、ついに注目を集めるようになりました。聖人堂が、九資河が名を馳せるようになり、羅田はもっと名を知らしめました。全国各地から続々と人々が押し寄せ、紅葉を見たことのない新疆の女の子マナスも噂を聞きつけやってきたのです。
かつて人々に親しまれ、また長い間の冷遇も経験し、今再び人々の注目の的となっています。本当に世の移り変わりの激しさを感じさせられます。しかしながら、扱われ方がどんなに浮き沈みしようと、相変わらず樹皮は黒く粗く、曲がった枝はロマンチックさを感じさせないナンキンハゼの木は、終始本分を守っています。一生懸命自らすべてを緑から紫、紫から赤、赤から黄色の葉と雪のように白い実に変化させ、羅田の絶景を作り上げていく。長年の沈黙を経ても、恨みも悩みも感じさせず、ただ人の幸せのために黙々と貢献することで、世間に向けて有用性を証明してきました。当時植林をした人は想像できただろうか、ナンキンハゼが再び注目されるようになった時、観光客や富をもたらしてくれただけでなく、心を乱した人々にも賞美して落ち着かせる効果をももたらしたということを。
長い髪をたなびかせ、マナスは情感たっぷりに話しました。「仮にあの時、ここの人たちが経済価値を失ったナンキンハゼをことごとく切り倒していたら、今の絶景はきっとなかっただろうなあ…」つまり、守り抜いたことこそがこの絶景を可能にした訳であり、守り抜くこと自体がそもそも美徳なのです。私達もこの世のあらゆる絶景を、ナンキンハゼにしたように根気強く守ることに、黙々と貢献していこうではありませんか。(翻訳:高橋豪)
作者紹介:
柳長青
1963年3月生まれ、湖北鄂州出身。湖北作家協会会員、現在中国共産党黄岡市委員会宣伝部勤務。《中国県域経済報》、《湖北日報》、《長江文芸》、《广州文芸》、《芳草》、《芳草•潮》、《長江従刊》、《新作家》、《東坡文芸》、《問鼎》などの刊行物にて作品を多数発表。