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「美女教主」の短い人生

2014-11-13 ソース:Kaiwind.com 作者:王軒

江端儀は美貌で、小さい頃から俳優として香港映画界で有名な主演女優になった。しかし、心の空しさ、婚姻生活の失敗と病気の打撃で、彼女はキリスト教に入信し、その後、自分が新約教会を創立した。彼女は自分が死んだ後三日間で生き返ると予言したが、43歳の時舌がんで死亡し、奇跡を起こせなかった。  

美人女優梅綺(本名:江端儀)  

19637月、江端儀は香港新約教会を創立した。三年後の1966817日に、「美女教主」江端儀は病気でなくなり、行年43歳。江端儀は自分が死んだ後、三日間を経てば、また生き返ると予言した。しかし、死人が蘇るという奇跡は起きなかった。美女教主江端儀その短い人生が終わってしまった。  

美人女優は香港の舞台を照らし、優秀女優になった  

江端儀の本籍は広東省南海県であった。1923年に北京で生まれた。江氏は当時の名門豪族であった。江端儀のお祖父さん江孔殷は広東省太史公であった。江端儀のお父さんは民国時期の国会議員であった。江端儀の叔父さんは有名な広東曲作曲家、南海十三郎と呼ばれた江誉鏐であった。江端儀は美しい顔をしており、6歳のときから、臨時子役として「原始家族フリントストーン」の演出に参加した。1937年、ただ14歳の江端儀は俳優としてデビューし、梅綺という芸名をつけた。初めて参加した映画は「百戦余生」であった。江端儀は女優になってからの23年間、70部映画の主演女優を演じた。彼女は香港映画のスターとして40年代から50年代にかけて活躍していた。  

江端儀はさまざまなキャラクターに向いていたので、家政婦、社交界の花、天然少女、冷血キラーなどは全部生き生きと演出した。そのため、彼女は広東語映画界では大物映画主演女優第一人者として褒められた。     

美女スターは病気に縛られ、宣教の道に踏み入った  

幼い頃の江端儀は上海で生活したとき、キリスト教を信仰したお母さんに教会に連れられ、洗礼を受けさせられた。若い年で舞台で大成功した江端儀はいつも心の中が空しいと感嘆していた。1939年に二回自殺未遂をした。1941年、香港が日本軍隊に占領する前、彼女は映画スター張瑛と電撃結婚した。この「おやごっこ」みたいな婚姻生活はただ三年間で終わった。日本が敗戦宣告した後、江端儀と張瑛も離婚を宣告した。その後、江端儀は上海のあるすでに妻を持ったドラ息子と再婚した。1949年、家族全員は上海から香港に逃げた。1957年、江端儀は二度離婚した。  

婚姻生活が二回失敗した上、30歳を越えてから女優としてますます生活しずらいと感じてきた。元々体がよくなかった江端儀は、1957年の年末、ひどい胃潰瘍で倒れ、命が危険な状態になった。そのとき、女優紫羅蓮(本名邹潔蓮)は彼女に対し、絶えずに福音を伝え、イエスキリストに信仰するように勧誘した。生死の境に立った江端儀は病床でキリスト教を入信し、以前を改正するようと決心付けた。しばらくしたら、体の状況は回復した。江端儀はあれ以来、香港九竜地域の教会でさまざまな証し活動に参加し、一時的には話題になった。同時に、彼女は中華宣教会が主催した「培霊学院」に参加し、聖書の内容を熱心的に調べた。  

1959921日、江端儀は「山を割って母上を救うナタ」という劇で海に身を投げるシーンを撮影したとき、これをきっかけとして、過去と分かれることをいきなり決めた。彼女は海から上がった後、まもなく芸能界から引退し、昔の梅綺はもう「死んだ」。自分はこれから一筋宣教をすると正式的に宣告した。これは大騒ぎを起こした。  

短命の美女教主江端儀  

美人女優は教会を創立し、邪説を宣教  

芸能界から引退した後、江端儀は神を証すためあちこちにかけていた。そのうちに、彼女は自分の能力を向上させる必要があると感じてきた。19615月、江端儀はあるペンテコステ派牧師の勧誘をうけ、長時間の断食しながら祈祷していた。7月になると、彼女は聖霊に満たされて、異言を経験したと言いふらした。ある時、香港の教会では、ある年取った外国人ペンテコステ派宣教師は演壇彼女に指差しながら、エホバは彼女を時代の先知として指定したと予言した。あれ以来、江端儀は自分を最後の時期にエホバに選ばれた「東方大先覚者」だと思い込んだ。あちこちに宣教したとき、彼女はほかの主流宗教流派がペンテコステを信じないことが大罪だと指摘し、予言を言い始めた。翌年、江端儀は密室の中200日間をかけて祈祷し、「生命証道集」という本を書き上げた。本の内容は、彼女はエホバから啓示をうけ、最後の時期に、「血、水、聖霊が全備真理」を宣教する。彼女だけが受けた血、水、聖霊は本当の全備真理だということである。  

19637月、江端儀は香港で新約教会を創立した。これは歴史上初めて香港を発祥地にした独立教派である。江端儀は自分が創立した新約教会こそ、唯一聖霊の感化をうけた正真正銘の教会であり、自分が新約の初期にある原始で正統な教会を作り直っていると思った。したがって彼女はほかのキリスト信者たちに対し、その宗教団体を「解体」し、そこから「脱出」するように勧誘した。その後、江端儀はシンガポール、マレーシアへ赴き、元々の宗教に不満がある沢山の信者を誘い、彼らを元の宗教から分かれさせられ、自分の教会11個を成立した。1964年、江端儀は1966年に全地域で規模の大きい復興運動があり、新約教会の信仰は各地に広げ、聖霊は日の出処(東方)に神が創った新約教会から日が沈む処(西方)へ流れると予言した。  

60年代の初め、台湾地方教会(外部は集会所とよく呼ばれた)ではシスマがおきた。したがって、1965年の末ごろ、江端儀は台湾で宣教したとき、地方教会と分かれた信者を沢山募集できた。30数箇所の新約教会を成立させた。その中、もっとも有名な人は南台湾の洪以利亜(洪三期)であった。彼は江端儀によく重視され、台北に転勤させられた。江端儀は台湾で最も大きい新約教会を彼に任せた。江端儀のやり方は当時、ほかの教会から猛烈な批判を招いた。彼女は教会を分裂し、解体したことで指摘され、「邪悪な霊に満たされた」さえ言われた人がいた。  

美女教主はガンで死亡、予言は自滅した  

新約教会の梅綺、洪三期などはみんな自分のことを「先覚者」であり、「最も上の神」を代表して「王の権力を実施」する。自分は「神が地上に委任した君主」であることを言いふらしていた。「人の国を覆して神の国を築き上げる」と宣言した。新約教会は中国の政権を「暴政」、法律を「悪法」だと意地悪く中傷した。「無神論者を倒す」「共産主義に追いまくられた人間の魂を救い、キリストの国を作り上げる」わめきたてた。彼たちに煽動された結果、中国国内にいた幹部らはあちこち信徒を募集したり、組織を設立したり、違法集会をしたりして、一部分地域の社会安定にひどい影響を与えた。  

196681713時ごろ、江端儀は舌がん発作で死亡した。行年43歳であった。江端儀は自分が死んだ後三日間過ぎると生き返ると予言したが、彼女の信徒たちは数日間を待っても、死人が生き返る奇跡は起きなかった。美人女優の短い人生が終わった。  

江端儀が死んだ後、娘張路は母親の位置を継ぎ、新約教会信徒を引率した。1988年、台湾の新約教会は再度分裂した。古参信者左坤は使徒だと名乗り、一部分の信者を引いて教会と分かれ、「イエスキリスト血水聖霊全備福音団」を創立した。中国大陸にも支部を作った。1995年、イエスキリスト血水聖霊全備福音団は中国政府によって「邪教」だと判断された。  

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