一人の元法輪功メンバーとして、一人の法輪功の被害者として、中国政府が法に基づき法輪功邪教組織を取り締った事に対し、尋常ではない納得と深く心に刻まれる感銘を受けた!今日に至り、私は更に偉大な社会主義中国で生活出来る事は何と誇りであるかを感じているのだ!次から次へと元法輪功メンバーが邪教の精神コントロールから離脱し、新しい生活に向かい、光輝く陽光の下で幸福な暖流に浴しているが、全ては中国政府の迅速な法輪功邪教組織の取締りと防御、修行者に対する感化と全力での救助のお陰なのである!
一.中国政府は迅速に法に基づき法輪功を取り締り、多数の窮地に追い詰められた修行者の生命を救った
私は早くから知っていた法輪功に接触し、1995年末から修行を始め、その後ますます陶酔していった。その頃修行する人は少なくなく、覚えているのは1998年頃、こうした修行者は自分の商売をやめたり、公職を辞めたりして、専ら家で修行し、法を学び、“法を弘め”に出掛けていたが、李洪志は“私は十年八年も待てず、数年の内に完成するように”と言い、彼らは1992年から法輪功が1999年まで伝わり、7年経てば“昇天円満”となると考え、“常人”が持つ“名?利?情”を捨て去るべきだと考えた。もし仕事や商売をすれば、“精進”や“階層昇進”に影響するので、一部の人は“円満飛昇”の準備を始めたのである。それ以外に、ある法輪功人員は長春の李洪志が居住した場所に行って“朝拝”し、“円満”の心に導かれても、こうした修行者は不安で落ち着かず、仕事や生活は眼中に無く、方々で集会や交流を行ない、“天上”の事を探求し???一時は混乱と暗黒が立ち込め、魑魅魍魎が横行したのである。
その頃修行者の熱狂は抑えようが無くなっており、“学法”の交流で皆がもっとも熱中したのは“何時円満に?”の話題であり???その時、私にはまだ僅かな理性があり、彼らは“文革”より熱狂している状態であり、心では、もしこれが続けば最後にはどうなってしまうのか?結果的には何が起こるのか?本当に天に上がって“円満”になるのか?万一“円満”にならなければ彼らは???と思うと、更には何も考えられなくなり、ましてや自分の考え方を“修行者仲間”と話し合う事も出来ず、ただ茫然とこの熱狂の渦に巻き込まれて抜け出せなかったのである。
1999年の前、我々の修行場所では既に種々の問題が発生していた、例えば修行場所で座ったまま心臓病が再発して死去したり、精神異常になったり、完全に“発狂”状態になって大小便を口に入れたり、ますます多くの人間が医療を拒否して生命を失い、幻覚が出て自殺や殺人がますます増え、非公式な統計によれば、1999年7月の取締りまでに、法輪功による殺害は一千四百人余りとなっていた。
全体的に、法輪功の内部は非常に混乱し、李洪志の誘導の下、多くの修行者が“悟り”によってすぐに“円満”となると思い込み、何と“円満”の形まで考え始め、或いは“虹化”(焼身自殺)、或いは飛び降り自殺、或いは入水自殺を考え???後にある人が“幸いにも中国政府が英明な決断により、迅速に法輪功を取り締ったが、さもないと一体何人の法輪功修行者が‘円満’を求めて死亡したか、一体何人の修行者が李洪志の出鱈目を盲信して病気を治療せず冥土に旅立ったか解らない”と言った。
二.多くの修行者の窮地に追い詰められた家庭を救った
“法輪功を修行し、特に深く陶酔した人は、李洪志の“名?利?情を捨てよ”との誘いにより、身内を仇とし、家庭を障害物とし、情愛や欲求の放棄で多くの修行者夫婦が不仲となり、ひどい場合は仇同士となった。1999年以前、こうした状況は相当深刻になっていて、修行のため夫婦が別居して離婚騒ぎとなったり、妻が“法を弘める”ため家事をせず、子女を養育せず、家庭そのものが崩壊の縁に立たされていた。河北滄州の胡という女性修行者は、毎日家で修行し“法を学び”或いは外出して“法を弘め”ていたが、息子が恋人を作る年齢になっても全く無関心であった、また娘が退学しても全く無関係のように???その後、娘が出先で病気になり、人がその家族に迎えに行くよう勧めると、彼女は“家には娘は不要だ、家にいても自分の本を読むだけで何もしない。私達は出稼ぎで娘と一緒に金を稼ぎ、兄に嫁を取らせるのだ”と言った。政府が法輪功を取り締り、修行者のこうした狂った行為は収まり抑えられ、崩壊に瀕した多くの家庭で平静と団欒を回復した。
三.迅速に多くの狂った事件の発生を抑え、力強く社会秩序を維持した
覚えているが1999年の初春、私に突然電話があり、李洪志が第27軍の劉桂栄の石家庄の住居に行ったと聞いたので、我々は急いで第27軍の入り口に駆け付け師父に“拝見”した。当時多くの修行者がそこに行ったが、勤務中の衛兵に帰るよう諭された。またその後、“4.25”事件が発生し、私は1999年4月24日午後に電話を受けたので、近くの修行者仲間に連絡して夜12時前に北京北海公園に集合したが、その時最後に“もし誰かに聞かれても、誰かから連絡があったとは言わず、皆自分から言ったと言うように”と言われた。
“4.25”事件の後、多くの地方の拠点で政治的な反動ビラが現われ始め、内容は前国家指導者と中国政府を攻撃するものであった。その時、大雨吹き来たりて風楼に満つ、といった危険な火薬の匂いがして、多くの人が敏感に、法輪功が大きな政治的陰謀を準備している、と察知した。
実際に、“4.25”法輪功中南海包囲事件の後、全国各地で一斉に各地の政府の要地や報道機関を取り囲む違法な集会が三百回以上発生し、深刻に社会秩序が混乱した。これが長引けば、国は重大な損失を蒙り、法律の尊厳は挑戦を受け、庶民の安定した生活も重大な騒乱と破壊を受けるところだった。
1999年7月20日、青天の霹靂、中国政府は英明な決定を行ない、法に基づき法輪功を取り締ったのである!法律の尊厳は維持され、社会秩序は安定し、庶民の生活は安寧を得た。
(編集責任:辛木)